プロ野球選手から警察官に! 元ヤクルト・松本友さんはセカンドキャリアで「人を守って助ける」
サクラサク―。
待ち焦がれたその吉報が舞い込んだのは、3月下旬のことだった。1月に受けた試験の合否結果は約70日後だと言われていたが、思いのほか早く届いた合格通知に元東京ヤクルトスワローズ・松本友さんは飛び上がらんばかりに喜んだ。
松本さんが受験していたのは警視庁の採用試験。つまり、晴れて警察官になったということだ。
■セカンドキャリアは警察官になる
昨年10月末、球団から来季の契約を結ばない旨の通告を受けた。野球を続けるか否か。松本さんに迷いはなかった。もう野球は辞めよう、と。
NPB11球団以外からの誘いはあり、そこから再びNPBを目指すという道もあった。だが、かつて血反吐を吐くような思いをして死に物狂いでNPBを目指し、その思いは一度成就した。それより、松本さんはすでに新しい夢を見つけていたのだ。
「もともと興味があった」と松本さんは明かす。そもそも大学時代、一時はプロ野球選手になることを断念して消防士を目指そうとしたことがあった。さらに昨季中、「1軍に1回も上がれなかったんで、自分の中で危ないなと感じていた」と、頭の片隅にセカンドキャリアがちらつき始めていた。
「何がやりたいだろう」と考えたとき、かつての夢だった消防士のほか、警察官や自衛隊などが浮かんできた。
それらの中から熟考した末、「いろんな人を守り、助けることができる。町に警察がいると安心感がある。それにかっこいい」と、警察官を新しい夢として掲げた。
たまたま知人のツテで、元プロ野球選手の現役警察官である北野洸貴さんに話を聞く機会に恵まれた。奇しくもスワローズの先輩(2011~2012在籍)にあたる北野さんは、警視庁のことや試験についてなど、「採用説明会」として詳細に語ってくれた。そこで、決意はより強固になった。
■超難関の採用試験を突破
そこから1月の試験に向けて1日4時間、猛勉強を始めた。「一次試験っていうのが教養試験で、国語や数学、英語とかいろいろあるので、過去問をかなりやりました。レベル?高校生くらいですね。けっこう難しいです」と、アルバイトもしながら机に向かった。
「ほかにも一次は論文試験と漢字もあって、漢字は携帯の漢検テストのアプリがあるんで、それを空いた時間にやっていました。論文は試験当日にお題を出されて、その場で書くんです。お題は『これまでの経験を踏まえて、どう乗り越えてきたか、それをどう警察官に活かすか』みたいな感じでした」。
これまでの濃い経験が役立ち、論文はスラスラと筆が進んだという。1月7日に受けた一次試験の2週間後に合格通知を受け、同27日の二次試験に臨んだ。
「二次は体力検査、面接、身体検査です。体力検査は腕立て30回とか腹筋とか、反復横跳びとか…それは全然余裕でしたね(笑)」。
警視庁の採用試験は年3回あり、松本さんが受験したのは第3回で、「460人くらいが受けていて、合格したのは30何人でした」と、競争率が12倍を超える狭き門を突破したのだった。
■もう一つの合格通知
実は…と、裏話を打ち明けてくれた。あまりの狭き門に、合格できるか不安だったという。元プロ野球選手だからと手心が加えられるということは、まったくない。100%合格できる保証はどこにもなく、「落ちるのが怖くて」と“滑り止め”に航空自衛隊の試験も受けていた。
そちらは昨年内に合格しており、その“お守り”を持っての警視庁の受験だったわけだ。自衛隊の入隊日が3月28日で、それまでに警視庁の合格通知が届かなければ入隊する予定だった。すでにその準備も整えたところに吉報が届き、入隊は見送ったという経緯がある。
警察官になる運命だったということか。
■プロ野球選手時代の苦い思い出とは
松本さんは東福岡高校から明治学院大学に進学し、独立リーグ(BCリーグ)の福井ミラクルエレファンツを経て、2018年の育成ドラフトでスワローズから2位指名された。
2020年7月に支配下登録され、その年の10月4日に初昇格して1軍デビュー。同10日に初安打、同20日には初スタメンに名を連ねた。オフにはNPB AWARDSで「イースタン・リーグ優秀選手賞」を受賞し、翌年4月8日には初打点も記録している。
5年の在籍で43試合に出場して、通算打率.328、同出塁率.423、同長打率.426、同OPS.849という数字を残した。
プロ野球時代の一番の思い出を尋ねると、松本さんは「2021年かな。交流戦のオリックス戦で、スタメンだったときにケガしたことですね」と即答した。初出場でも初ヒットでも初打点でもない。
この年の松本さんは開幕ロースターにこそ入れなかったものの、3月31日に登録されるとバットだけでなく、足でも守備でもチームに貢献し、徐々にスタメンの機会を勝ち取っていった。
そんな矢先、5月30日のオリックス・バファローズ戦(京セラドーム大阪)でのことだ。「6番・レフト」でコールされたあと、出場することなく交代した。なんと試合前練習の打球捕をしているときに左ふくらはぎを肉離れしてしまったのだ。
「あれはマジでショックでしたね。ずっと調子もめっちゃよくて、やっと1軍に定着できるかどうか、掴めるか掴めないかっていうところまできていて…。しかも練習中にやったんでね。あそこがもう、僕の中で一番の後悔というか…。前から違和感はあったのでトレーナーさんにもいろいろやってもらっていて、あのときも予防でテーピングもしてもらっていたんですけど、ブチッといきましたね」。
用心はしていた。準備も怠らなかった。しかし、それ以上に疲労が蓄積していたのだろうか。「あそこが僕の分岐点だったと思います」、そう言って、松本さんは悔しそうに唇を噛む。
「チャンスの神様は前髪しかない」といわれるが、その前髪を掴みそこねたことは、その後ずっと松本さんを苦しめた。
■打撃改造で本塁打を量産したが・・・
必死でリハビリに取り組み、ケガが完治したあとももちろん持ち前のガッツで努力し続けた。翌年はイースタン・リーグで打点王(57打点)を獲得し、ホームラン数もずっとリーグトップを独走していたが、1軍に昇格したため最終的には2本差でリーグ2位(13本)となった(チーム1位)。
バッティングがアピールポイントである松本さんは、「守備位置が外野やファーストだったんで、打つしか生き残れないなっていうのは常に考えていて、それも長打を打てたほうが生き残れる可能性があると思った」と、長打を打つために意識と技術を変えていったと明かす。
元プロ野球選手の動画なども見て、打球を飛ばすためにバットの出し方を試行錯誤した。それによってバットのヘッドをうまく使い、遠心力で飛ばす打法を見出し、ホームランを量産することに成功したのだった。
松本さんの打撃力に対する評価は高かった。しかし守備位置の兼ね合いなどもあって、その年の1軍での出場は7試合にとどまった。
「若い子もどんどん出てくるし、そういうのも踏まえて、やっぱりあそこだったなって思いますね」と、どうしても考えてしまうのは前年のケガによる離脱で、とことん悔いた。
もちろん、切り替えてはいた。「いかなるときも万全な状態でいけるように」と常に準備し、よりコンディショニングに腐心して前向きに取り組んでいた。
だが、さらに次の年は1軍出場の機会が訪れないまま、シーズンは終了した。
■雄平、内川、坂口をはじめとする周りの人々に感謝
プロ5年間で、松本さんは先輩たちに可愛がられ、かけがえのないものを得た。中でも雄平氏(東京ヤクルトスワローズ―現東北楽天ゴールデンイーグルス・二軍打撃コーチ)が引退するまでの2年間、自主トレに参加させてもらい、さまざまなことを学んだ。
「何かを言われたとかじゃなく、雄平さんからは見て学ぶものが多かったですね。ストイックに頑張っている雄平さんは、もう野球が大好きで…先輩だけど、なんかかわいいというか(笑)。野球に真摯に取り組む姿勢に、僕も頑張ろうって。そういう、背中で教えてくれました」。
同じく雄平氏を慕って集まった「チーム雄平」のメンバーたちとも刺激し合えた。
また、雄平氏の引退後、昨年は「バッティングを教えてもらいたくて」と内川聖一氏(横浜ベイスターズ―福岡ソフトバンクホークス―東京ヤクルトスワローズ―大分B-リングス)に弟子入りした。内川氏の地元・大分での自主トレではバッティングはもちろん、「野球に対する考え方や姿勢」を教わったという。
「一流の選手でも毎日これだけ考えて練習しているんだなって、すごく思いましたね」と、その一流足り得る思考や取り組みを間近で吸収した。
さらに「すごくお世話になりました」と名前を挙げたのは、坂口智隆氏(大阪近鉄バファローズ―オリックス・バファローズ―東京ヤクルトスワローズ)だ。
「グッチさんも最初、ちょっとおちゃらけているみたいなイメージかと思っていたんですけど、全然違っていて。野球に対する姿勢がめちゃくちゃ真面目。ごはんとか連れてってもらったりして野球の話をすると、もうすごい考えが深くて、熱い!すごく熱い!かっこいいっすね」。
同性も惚れる人柄に、松本さんも心酔していた。
スワローズに入団し、そこで出会った人、関わった人、お世話になった人たちは、松本さんにとってたいせつな宝ものになった。
退団のあいさつをした昨年秋、セカンドキャリアに警察官を選ぶことをチームメイトに宣言したところ、「みんなに『ぽい』って言われました(笑)」と、その制服が似合いそうな顔立ちと真っすぐで優しい人柄から、誰もが容易に“おまわりさんの姿”を想像できたようだ。
「(公言した手前)プレッシャーもありました。これで落ちとったら、やばいなと(笑)」と、無事いい報告ができたことに安堵する。
■信頼される警察官に
あらためてプロでの5年間を、「やっぱり厳しい世界でした。楽しく…いや、楽しくはないっすね、やっぱ(笑)」と常に競争だった来し方を振り返る。
「(NPBを目指していた)独立から考えると、ここまで頑張った、やりきったとは思っていますけど、やっぱり何回も言いますが、あのときの悔いっていうのは抜けないですね。まだできたんじゃないかっていう後悔っていうのは、そこに関してはあります。矛盾してますけど…」。
やりきったと自分自身を認めてあげたい。しかしその一方で、ずっと残っている後悔。スタメンに抜擢されながら、ケガをしてチャンスを逃したあの日のことは、楔のように松本さんに突き刺さっている。それは今も…いや、きっと一生、自らへの戒めとして十字架のように背負っていくのだろう。
しかし、だからこそ、松本さんは次の道でも精いっぱいやれると確信する。もう二度とあんな思いはしない。万全に万全を期して仕事にあたる。これからの仕事は、場合によっては人の命を預かることになるわけだから。
松本さんは、きっといい警察官になるに違いない。
これまでつらいときも苦しいときも、歯を食いしばってやり抜いてきた。その姿勢はこれからも変わることはないだろう。
「どんな困難でも立ち向かって、信頼される警察官になりたいですね。また頑張ります、一から」。
松本友さんは、そう力強く誓った。