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「ネオリベラリズム(新自由主義)」の本質の解明(3):保守派の経済学と政治勢力の“反革命”が始まる

中岡望ジャーナリスト
戦後、復員兵支援法で多くの若者が大学に入学し、中産階級を形成したーハーバ大(写真:イメージマート)

与えた

【連 載】(リンク先)

(1) 過酷な経済格差を容認した「古典的リベラリズム」

(2)「ニューディール・リベラリズム」と「修正資本主義」

(4)「ニューリベラリズム」と「レーガン革命」

(5) クリントン政権と「ニューディール連合]の崩壊

(6)「ネオリベラリズム」の日本への“歪な導入“

【目 次】(字数:6000字)

■戦後のアメリカの“最も平等な時代”/■保守派の最初の攻撃標的は「ワグナー法」の骨抜き/■労働組合を弱体化させる「労働権法」の導入/■企業を変えた「フリードマン・ドクトリン」/■「ネオリベラリズム」の下で進む市場の規制緩和

■戦後のアメリカの“最も平等な時代”

 1945年の終戦から1950年代は、アメリカ社会は最も平等な社会を実現した。労働組合の賃金交渉力の上昇、移民規制による労働力の流入の減少、労働者不足、戦時経済による景気上昇、政府の労働市場への介入などを背景に賃金は上層した。さらに1944年にルーズベルト大統領は「復員兵援護法(BI法)」に署名し、若い復員兵が同法に基づいて奨学金を得て、大挙して大学に進学した。戦前は貧しい家庭の子供たちにとって大学進学は夢であった。GIビルの教育給付金を得た復員兵の数は、1956年までに780万人に達し、220万人が大学に進学し、560万人が様々な職業訓練を受けた。大学を卒業した若者は、ホワイトカラーとして働き始めた。こうして“新しい中産階級”が登場し、戦後のアメリカの繁栄を支えた。

 戦争が終わった時、多くの経済学者は、アメリカ経済は深刻な不況に陥ると予測していた。戦争で生産能力が膨れ上がり、平時経済に戻れば、深刻な供給過剰と需要不足に直面するというのが、その理由であった。だが、その陰鬱な予測は外れた。経済学者の予測は外れるのが普通である。なぜなら彼らは、社会のダイナミズムを理解できないからだ。現実の経済は、賃金上昇で人々の可処分所得は増加し、新しい中産階級の登場で消費ブームが起こった。自動車やテレビなどの耐久消費財の需要が大きく伸びた。1954年にGMは記念となる販売台数5000万台目の車を出荷した。さらにアメリカは圧倒的な経済力を背景に敗戦国の日本やドイツなどに経済援助を与え、アメリカ企業の輸出先を拡大した。また農産物を戦後復興を進める国に供与し、農産物の過剰在庫の発生を防いだ。

 この時代、アメリカにとって最も平等な社会であった。高額所得者に高率の所得税を課し、低所得層に所得再配分を行った。戦争が終わった1945年の限界最高所得税率は94.0%であった。課税区分は24で、最低所得税率は23.0%であった。1950年の限界最高所得税率は84.357%、最低所得税率は17.40%であった。1960年でも限界最高所得税率は91.0%と高水準に維持されていた。その時の最低所得税率は20.0%であった。

 企業役員の報酬も減っている。その背景には、組合の力が強まったことがある。MITとFRBの研究者は「1940年代はアメリカの経済史で特筆すべき時代である。経営者と労働者の所得格差が急速に縮小した時代である。その後、30年に渡って過去に例のない相対的な平等が実現した」と指摘している(Carola Fryman, Raven Molloy, “The Compression in Top Inequality during the 1940s”, 2011 January)。さらに同調査は「この期間の企業幹部の報酬の相対的な増加率が低かった理由として、企業幹部の報酬と組合の力の間に負の相関関係が存在した」と指摘している。要するに、企業は組合の抵抗があり、思い通りに役員報酬を引き上げることができなかったのである。SEC(証券取引委員会)の企業のガバナンスに対する新しい規制が影響したとも指摘している。こうした背景には、「ニューディール・リベラリズム」の理念が社会へ浸透したことによって、企業に対する国民の意識が変わったこともある。

■保守派の最初の攻撃標的は「ワグナー法」の骨抜き

 戦後、「ニューディール連合」がアメリカの政治と経済と社会を支配する。1946年から1984年の間に連邦議会の選挙は24回行われた。そのうち下院では民主党が22回勝利し、共和党が勝利したのは1946年と1954年の2回にすぎない。アメリカ社会に「リベラリズム」が根付いた。1964年には「公民権法」が成立し、1973年に最高裁が女性の中絶権を認める判決を下した。女性解放運動が盛り上がり、ヒッピー文化などカウンター・カルチャーがアメリカ社会を席捲していた。民主党は労働組合や農民、インテリに加え、若者や女性、少数民族の支持を得た。

 保守派の勢いは衰え、政治だけでなく、あらゆる分野でリベラル派が優勢に立った。メディアだけでなく、学界もリベラル派が圧倒した。経済学界でも、古典派経済学は影響力を失い、政府の経済への積極的な関与を主張するケインズ経済学が主流派となった。後にノーベル経済学賞を受賞する保守派でマネタリストのミルトン・フリードマン教授も、当時は影が薄かった。後述するが、フリードマン教授は「ネオリベラリズム」の最大の推進者になる。

 リベラリズムが圧倒する中で、保守主義運動が始まる(保守主義運動に関しては拙著『アメリカ保守革命』を参照)。共和党の保守派を代表するロバート・タフト上院議員は、「ニューディール・リベラリズム」を象徴する「ワグナー法」に攻撃の照準を当てた。1946年の中間選挙で共和党は1929年の選挙以来、初めて両院の多数を占めた。1945年から1946年、労働組合のストライキや労働争議が続発した。こうした状況を背景にタフト上院議員は、共和党が両院で多数派を占めたことを千載一遇のチャンスとして、労働組合の弱体化を図った。「ワグナー法」の修正として、上院で「タフト法案」、下院で「ハートリー法案」が可決された。最終的に両法案を一体化した「タフト・ハートリー法(Labor Management Relations Act of 1947)」が提案され、1947年に議会で可決された。これに対してトルーマン大統領は、同法は「労働者に不利益をもたらす」として拒否権を発動した。労働組合の指導者も「奴隷労働法である」と激しく反発した。最終的に議会はトルーマン大統領の拒否権を覆し、法案は成立した。全米製造業者協会が同法成立に向けて積極的なロビー活動を展開した。

 では「タフト・ハートリー法」は、どのような法律だったのか。同法の目的は、①経済の完全な流れを促進すること、②労働者と企業の正当な関係を規定し、一方の当事者が他方の当事者の正当な権利を侵害するのを阻止するために、秩序ある平和的な手続きを提供すること、③労働団体に対する個々の労働者の権利を守ること、④経済に影響を及ぼし、社会福祉に害を及ぼす労使双方の慣行を明確にすること、⑤経済に影響を及ぼすような労働争議から国民の権利を守ること、⑥組合員のみを雇用する「ユニオン・ショップ制」を廃止することである。さらに⑦企業が組合結成を阻止することは企業の「表現の自由」であるとして認めたられた。

 「ワグナー法」では「企業の不当行為」の禁止に主眼が置かれていたが、「タフト・ハートリー法」では、公共の福祉の観点から「労働組合の不当行為」も制限された。その結果、組合員の承認を得ない「山猫スト」や、政治目的の「政治スト」、他の組合との「連帯スト」、二次的な「集団ピケ」、組合の政治献金などが規制されるようになった。

 共和党が「ワグナー法」の修正を強力に進めたのは、労働組合の影響力を低下させることであった。選挙で勝利するには、民主党の支持基盤を切り崩すことが必要だった。その思惑は成功する。後述するが、「ネオリベラリズム」の影響力の拡大は、労働組合参加率の低下と対応している。その役割を担ったのが、「タフト・ハートリー法」に規定された「労働権」の考え方である。

■労働組合を弱体化させる「労働権法」の導入

 「タフト・ハートリー法」の最大のポイントは、「ユニオン・ショップ制」の禁止にあった。具体的には、「労働権法(the right-to-work law)」の導入である。同法によって、州政府は「ユニオン・ショップ制」による労働者の組合への“強制的な”加入を禁止する権限が与えられた。言い換えれば、「労働者は組合に加入するかどうかを選ぶ自由がある」ということだ。同法を成立させるかどうかは州議会の判断に委ねられた。全国を対象とする「連邦労働権法」はなく、各州議会で法案が採決される。2021年現在、「労働権法」を可決している州は27州に達している。50州の半分以上の州、特に保守的な南部が認めている。

 「労働権法」を可決した州では、当然のことながら、組合参加率が低く、労働賃金も安い。ストや高賃金を嫌う多くの企業は、「労働権法」を認めた州へ工場を移転した。その結果、「労働権法」を認めた州の雇用率は、そうでない州よりも高くなっている。また企業の役員報酬や株主配当の水準は高い。他方、「労働権法」を認めていない州では、工場移転などもあり、組合員数は劇的に減少し、組合参加率は軒並み低下している。民主党の最大の支持基盤を切り崩すという共和党の戦略は成功した。

 多くの企業が南部に工場を移転させた他の理由にも触れておく必要がある。それは「空調設備」の普及である。夏に南部を訪れた人には理解できるだろうが、南部の夏の暑さと湿度は耐え難く、昼間、工場で働くのは不可能である。だが、空調設備によって昼間の操業が可能になった。もう一つは交通である。東海岸で生産された製品を西海岸まで運ばなければならない。運送費と時間費用は無視できない。だが大陸の中間地帯に工場を作り、生産すれば、全国への配送は低コストで済む。さらに「労働権法」を認めた州の法人税と所得税が安いことも、企業の南部への移転を促進した。

■企業を変えた「フリードマン・ドクトリン」

 1970年代に企業経営者の意識を変える大きな変化が現れた。「ニューディール・リベラリズム」の圧倒的な影響の下で経営者は萎縮していた。また冷戦のため経営者は労働組合を無視できなかった。だが、そうした雰囲気を劇的に変える事態が起こった。社会を変えるには、まず理念を変える必要がある。「ニューディール・リベラリズム」を越える理念が必要であった。その役割を担ったのが、二人の人物である。

 1970年9月13日に保守派の経済学者ミルトン・フリードマン教授が『ニューヨーク・タイムズ』に長文の記事を寄稿した。フリードマン教授は寄稿文に「企業の社会的責任は利潤を増やすことである」という題を付け、編集者はそれに「フリードマン・ドクトリン」という見出しを付け足した。フリードマン教授は、経営者の社会的責任とは「社会的な基本ルールに沿って、可能な限り利益を上げたいという株主の願望に沿って経営を行うべきだ」と主張した。現代風にいえば、「企業は株主のもの」であり、「株主価値の最大化」こそが経営者が果たさなければならない“社会的責任”であると説いたのである。

 労働組合の要求に応じて賃上げを受け入れ、企業利益を減らすことは、経営者の社会的責任に反することになる。「フリードマン・ドクトリン」が次第に企業経営者に浸透し、アメリカのコーポレート・ガバナンスが大きく変貌を遂げることになる。それまで労働者は企業の最大のステークホールダー(利害関係者)とみなされていたが、やがて株主と経営者だけがステークホールダーとみなされるようになる。企業経営者にとって、利益を確保する最も確実な方法は雇用調整を行うことである。人件費を削減すれば、利益は出てくる。会社は労働者のものではなく、株主のものである。利益を増やし、株価を上げることが経営者の最大の仕事となった。フリードマン教授の主張は、ドラッカーの企業理論を根底から覆し、経営者に新しい思想的な基盤を与えた。

 フリードマン教授は保守派経済学を代表する経済学者である。大恐慌は「市場の失敗」から起こったとするリベラル派の経済学者に対して、政府の政策の失敗が大恐慌の理由であると主張した。「政府の市場介入」こそが問題であると反論したのである。1978年にフリードマン教授は『選択の自由』という本を出版し、世界的な大ベストセラーになった。この本をベースにテレビ番組も作られ、高視聴率を上げた。「自由競争」と「選択の自由」が、最適な社会をもたらすと主張した。古典派経済学の復活である。財市場や金融市場に留まらず労働市場の自由化、教育の自由化なども主張した。

 「ニューディール・リベラリズム」の政策の柱のひとつである所得税の累進課税制に反対して、所得に関係なく一律に同じ税率を課す「均一税」を主張した。外国為替市場の変動制も主張し、徴兵制を止めて志願兵制にすることも主張した。両親が学校を自由に選べるバウチャー制度の導入も主張した。財政均衡を主張し、政府の景気政策に反対し、さらに社会福祉の民営化を主張した。同教授の主張は「市場での自由競争が最も好ましい結果を生む」というものであった。それは、古典派経済学の主張に呼応し、「ネオリベラリズム」の規制緩和へとつながる考え方であった。

 さらに経営者の意識を変えたのが秘密文書「パウエル覚書」である。弁護士のルイス・パウエルが米商業会議所の依頼で1971年8月23日に作成したメモである。「パウエル覚書」の表題は「企業による民主主義支配の青写真」である。パウエルは「アメリカの経済制度が(リベラル派や共産主義者から)広範な攻撃を仕掛けられている」と指摘する。だがアメリカ企業の対応は融和的で、断固として経済システムを守ろうとするものではない。攻撃に立ち向かうには、政治力の獲得が必要だと説く。そして「政治力は決意をもって積極的に行使すべきだ」と主張する。「ニューディール・リベラリズム」を克服するために企業は協力して政府に立ち向かう必要性を訴えた。その主張を受け、経営者団体は積極的なロビー活動を通して政治に影響を及ぼし始めた。企業は共和党と手を組んで、「ニューディ―ル連合」への攻撃を始めた。

 この覚書は「ネオリベラリズムによる武装への呼びかけ」と言われている。パウエルは、ネオリベラリズムを支持する学者へ資金を提供して、書籍、論文、雑誌への寄稿を通して、世論へ影響を与えるように主張した。その主張が、その後、保守派のシンクタンクや財団のネットワーク形成に大きな影響を与えた。

 「フリードマン・ドクトリン」がアメリカ企業に対する「経済的マニフェスト」とすれば、「パウエル覚書」はアメリカ企業に対する「政治的マニフェスト」であった。「フリードマン・ドクトリン」と「パウエル覚書」は保守派の共通メッセージとなり、1981年のレーガン政権誕生への布石となる。ちなみにパウエルはニクソン大統領によって最高裁判事に指名された。最高裁は反労働組合的な判決を出すことになるが、そうした判決をリードしたのはパウエルであった。

■「ネオリベラリズム」の下で進む市場の規制緩和

 アメリカの企業家は自信を取り戻し、影響力を拡大していった。1989年のベルリンの壁の崩壊で冷戦が終結し、資本主義が共産主義に勝利したことも、経営者の「ネオリベラリズム」への傾斜を強め、経営者は傲慢になっていった。

 さらに2010年に最高裁が選挙献金制限に関する「シチズン・ユナイテッド対連邦選挙委員会裁判」の判決を下し、企業や労組、団体の政治献金は憲法の保障する「表現の自由」に当たるとした。政治献金の上限設定は憲法違反だとされた。この判決によって企業や労働組合などの政治献金の上限が廃止された。特に企業は巨額の政治献金を行うことで、政治に対する影響力を強めた。積極的なロビー活動も加わり、議会は企業に有利な立法を可決するようになって行った。

 古典派経済学は自由競争を主張していた。だが「ニューディール・リベラリズム」のもとで市場規制が進んだ。「ネオリベラリズム」の下で規制緩和が進んだ。最初に規制緩和が行われたのは「財市場」である。独占は市場競争を損なうとして独占企業は解体された。たとえば、電話会社AT&Tは小さなスモール・ベルという電話会社に分割された。IBMの分割も遡上に載った。「為替市場」も固定相場制から変動相場制に移行した。「金融市場」も、1970年代末まで金利規制が行われていたが、金利自由化が行われた。さらに大恐慌の教訓から生まれた銀行業務と証券業務を分離した「グラス・スティーガル法」も廃棄された。残された市場は「労働市場」である。

 連載(4)では「ネオリベラリズム」の政策を実現に移したレーガン大統領の「レーガン革命」と「労働市場の自由化」に関する分析を行う。

ジャーナリスト

1971年国際基督教大学卒業、東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)、東洋経済新報社編集委員を経て、フリー・ジャーナリスト。アメリカの政治、経済、文化問題について執筆。80~81年のフルブライト・ジャーナリスト。ハーバード大学ケネディ政治大学院研究員、ハワイの東西センター・ジェファーソン・フェロー、ワシントン大学(セントルイス)客員教授。東洋英和女学院大教授、同副学長を経て現職。国際基督教大、日本女子大、武蔵大、成蹊大非常勤講師。アメリカ政治思想、日米経済論、マクロ経済、金融論を担当。著書に『アメリカ保守革命』(中央公論新社)など。contact:nakaoka@pep.ne.jp

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