「ネオリベラリズム(新自由主義)」の本質の解明(1):過酷な経済格差を容認した「古典的リベラリズム」
【連 載】(リンク先)
(3)戦後の保守派の反撃
(4) 「ネオリベラリズム」と「レーガン革命」
(5) クリントン政権と崩壊する「ニューディール連合」
(4)「ネオリベラリの日本への“歪な導入“
【目 次】(字数:6700字)
■まず「資本主義」の発展過程を理解する必要がある/■「ネオリベラリズム」という言葉の起源はどこにあるのか/■「古典的リベラリズム」の時代のアメリカ社会の現実/■「古典的リベラリズム」の是正を目指した進歩主義の敗北/
■まず「資本主義」の発展過程を理解する必要がある
「ネオリベラリズム」、あるいは「新自由主義」という言葉を知らない人はいないだろう。さらに「ネオリベラリズム」が、現在の経済的な格差拡大など深刻な社会問題を引き起こしていることも周知の事実である。政治家や学者は「ネオリベラリズム」の欠陥を修正し、「新しい資本主義」を模索している。岸田首相も「新しい資本主義」をスローガンに掲げている。首相の諮問委員会は様々な提言を行っている。岸田首相は、国際会議の場で繰り返し日本の「新しい資本主義」の試みを喧伝している。だが岸田首相の発言や諮問委員会の提言を詳細に検討してみると、とても「ネオリベラリズム」を超克した「新しい資本主義」を目指しているとは思えない。
なぜ意味のある議論や政策が出てこないのだろうかと疑問に思う。おそらく政策提言する人たちは「ネオリベラリズム」の本質、あるいは歴史や理論をほとんど知らないからだろう。長くなるが、今回の4回の連載で、資本主義の発展をベースに、なぜ「ネオリベラリズム」が登場したのかを説明する。同時にアメリカの「ネオリベラリズム」と、日本の「ネオリベラリズム」の間にある本質的な違いも明らかいする。
やや遠回りかもしれないが、資本主義の発展過程から理解してみるのが、「ネオリベラリズム」の本質を理解する最も近道である。
資本主義は「商業資本主義」、「産業資本主義」、「金融資本主義」そして、現在の「株主資本主義」という発展段階を経てきた。その発展の中で最も重要な出来事は、「株式会社制度」が作られたことである。「株式会社制度」は、人間が作り出した最大の発明のひとつである。「株式会社制度」がなければ、持続的な経済成長を実現することはできなかっただろう。現在の豊かな生活も存在しなかったかもしれない。「商業資本主義」は商品を移動させることで利益を生み出した。「産業資本主義」は商品を作ることで利益を生み出し、同時に産業革命を導いた。
「株式会社制度」ができあがる前は、「家内工業」が生産の主体であった。また事業を行う都度に出資者を募り、事業が終わると、解散して、利益とともに出資金も出資者に返還された。たとえば、冒険心に満ち、リスクを恐れぬ人物が、インドから香料を仕入れる計画を立てる。そのベンチャーに必要な資金を人々から募り、得た資金で船を作り、乗組員を雇って、インドに向けて出港した。無事に香料を仕入れ、船は帰国する。香料は高値で売れ、利益は出資者に配分される。途中で船が沈没すれば、出資者は利益どころか、出資金すべて失うことになる。無事帰国すれば、膨大な利益が約束されていた。ハイリスク・ハイリターンのビジネスであった。そこでは、ひとつのベンチャーは一回限りの事業で、継続的に行われることはなかった。
だが、毎回、事業が終われば解散するよりも、事業を継続する方が確実に利益を上げることができると気が付いた。事業が終わっても、出資金を返還せず、出資金を株式に転換する方法を見出した。こうして株式会社という仕組みができあがった。出資者は株主となり、事業は継続的(going concern)におこなわれるようになった。さらに株式を売買する市場も作られた。資金が必要になった株主は、株式市場で株式を売却することで、資金を回収することができた。資本が流動化されたのである。「事業の継続」で経験が累積化され、経営の熟練度も高まった。そして資本の蓄積とイノベーションが行われた。
さらに株式会社制度を発展させたのは、株式会社に「法人格」が与えられたことだ。株式会社は個人と同じような法的な資格を与えられ、法人として契約を結び、事業を行えるようになった。それによって株式会社に対する信頼度は高まり、株式会社は経済活動を担う最大の存在となった。
イギリスの「東インド会社」は、最初の株式会社である(正確にいえば、最初の「東インド会社」はオランダで設立された)。イギリスの「東インド会社」は多くの商船を持ち、イギリス政府の支援を得て、イギリスの制海権を背景に発展していった。「東インド会社」はイギリス帝国拡大の先兵の役割も果たした。同社の商船は武装されていた。
さらに株式会社の発展を促進したのが、市場における自由競争を主張する「古典派経済学」であった。「古典派経済学」は「重商主義」と「自由競争」を支える理論的な根拠を与えた。これが「資本主義」の生成の歴史である。イギリスの世界での覇権確立は、こうしたイデオロギーや制度の有効性を証明するものと理解された。
資本主義のベースに株式会社があったが、担い手は時代とともに変わっていった。初期資本主義では、起業家が非常に大きな力を持ち、「産業資本主義」と呼ばれた。この時代には、想像を絶するほどの貧富の格差が生じた。その後、銀行が主役になる「金融資本主義」の時代も登場する。現代は、企業は株主のために存在するという「株主資本主義」となっている。
今まで繰り返し「資本主義の危機」が唱えられ、そのたびに「新しい資本主義」が求められた。「新しい資本主義」を求めるのは、今が初めてではない。初期資本主義に様々な修正が加えられたが、資本主義の枠組みは変わることはなかった。現在も「ネオリベラリズム」の理念に基づく資本主義は様々な経済的、社会的な問題を引き起こし、人々は「新しい資本主義」が必要だと主張している。そうした議論を有意義なものにするためには、資本主義の原理と「ネオリベラリズム」の本質を理解する必要がある。
資本主義は「企業活動」と「私有財産制」をベースにする。また各時代の資本主義の特徴は、「企業」と「労働」と「市場」と「政府」の間の関係のあり方によって決まる。
■「ネオリベラリズム」という言葉の起源はどこにあるのか
なぜ「ネオリベラリズム」と呼ばれるのかを理解する必要がある。その言葉の由来を見てみよう。「リベラリズム(liberalism)」は政治学の概念である。語源は「liberty(自由)」にある。「liberty」は「政治的圧力からの自由」を意味する。アメリカの「自由の女神」の英語は「Statue of Liberty」である。「リベラリズム」という言葉は、経済学の教科書には出てこない。政治的概念の「リベラリズム」が、政府の規制を廃止し、自由競争を主張する古典派経済学と結びつき、「古典的リベラリズム(Classical liberalism)」と呼ばれる概念が生まれた。
アメリカの資本主義の変遷は三つの段階で表現される。「古典的リベラリズム」、「ニューディール・リベラリズム(New Deal Liberalism)」、そして「ネオリベラリズム(Neoliberalism)」である。「Neo」は、「新しい」という意味である。現在は「ネオリベラリズムの時代」にある。後で詳細を説明するが、「ネオリベラリズム」は「古典的リベラリズム」が「装いも新たに復活」したものである。「ネオ」であるが、その内容は極めて「復古的」なものである。
「古典的リベラリズム」は、経済学で言えば、古典派経済学、アダム・スミスの世界の資本主義の原理である。市場における自由競争が最適な資源配分を実現するという考え方である。従って政府による市場介入や自由な経済活動の規制は忌避される。自由競争と価格メカニズムは「神の見えざる手」という言葉で表現された。
イギリスから独立した新生アメリカでは、イギリスに圧制された記憶から、大きな権力を持つ政府や政府の規制を否定した。建国したばかりのアメリカにとって、「古典派リベラリズム」は国家理念と一致した。なぜなら「古典的リベラリズム」は、「政府の市場への介入忌避」、「自由放任主義」、「小さな政府」を基礎とする資本主義を主張するからである。この主張は1930年代から1970年代まで否定されたが、1980年代に入ってイギリスとアメリカで蘇り、「ネオリベラリズム」と呼ばれた。「ネオリベラリズム」の主張は、「古典的リベラリズム」を復活させるものであった。
余談だが、アダム・スミスの『国富論』とトーマス・ジェファーソンの『独立宣言』は同じ1776年に出された。ジェファーソンはイギリス訪問中にスミスと会っており、お互いに面識があった。二人の考えた国家観は似ていたのかもしれない。アメリカの建国の父たちが心の中に描いていたのは、アダム・スミスの経済体制であった。期せずして、「ネオリベラリズム」の担い手となったのは、イギリスのサッチャー首相とアメリカのレーガン大統領であった。「アダム・スミスの国の指導者」と「トーマス・ジェファーソンの国の指導者」である。
■「古典的リベラリズム」の時代のアメリカ社会の現実
「古典的リベラリズム」がアメリカ社会を席捲するのは、南北戦争前後に始まる産業革命の時代である。それまで、アメリカは農業国家であった。イギリスから遅れて始まった産業革命によって、アメリカ経済は1860年から1900年の間にGDPは6倍に成長し、世界最大の工業国となった。高度成長の時代は「ギルディド・エイジ(Gilded Age)」と呼ばれるアメリカの初期資本主義の輝ける時代であった。素晴らしい技術革新もあったが、企業家は悪辣な手段を用いて富を蓄積していった。その強欲ぶりから、彼らは「泥棒貴族」と呼ばれた。
企業経営者は大富豪になり、膨大な富の格差が生じた。1890年の時点で、所得上位1%の富裕層が全資産の51%、上位12%の富裕層が全資産の86%を保有していた。1886年にアメリカの最高裁は企業の「法人格」を認め、企業は個人と同様に契約の主体になり、個人と同様に法律で保護されるようになった。ちなみに企業に法人格を認めた最高裁の判決は「Santa Clara対 Sothern Pacific Railroad Co判決」である。こうしてアメリカは近代的な資本主義国家へと成長していった。
現在のアメリカは「第2のギルディド・エイジ」と呼ばれている。19世紀と同じように信じがたいほどの富の格差を生み出している。上位1%の最富裕層が34%、上位10%の富裕層が88%の資産を保有している(FRB調査)。所得下位50%の家計が保有する資産はわずか1.9%に過ぎない。貧富の格差が深刻な社会問題を引き起こしている。歴史は繰り返されるのである。
「古典的リベラリズム」の時代、あるいは初期資本主義の時代は、市場における自由競争に留まらず、社会的にも「社会的ダーウィン主義」が唱えられた時代である。企業のみならず、個人にも生存競争や自然淘汰、優勝劣敗、適者生存といった考えが適用された。「社会的ダーウィン主義」は、社会学者のハーバート・スペンサーが提唱したもので、アメリカのインテリ層や起業家に広く受け入れられていた。大富豪のジョン・ロックフェラーは「適者生存は自然の法則であり、神の摂理である」と語っている。多くのアメリカ人は「市場の法則」は「自然の法則」と同じだと考え、市場機能に従えば、社会は豊かになると素朴に信じていた。
さらに「リバタリアン(市場至上主義者)」は「格差こそが進歩の原動力である」と、貧富の格差の正当性を主張した。労働者は劣悪な労働環境のもとで長時間労働を強いられた。女性や子供の労働も例外ではなかった。労働者は搾取されていた。労働改善を求めて行うストは、暴力的に排除された。労働組合は非合法であった。アメリカでは、軍隊がストを制圧したこともある。「トラスト」と呼ばれる大企業は、国家権力と癒着していた。
当然のことながら、過酷な労働環境の改善や賃上げを求める労働者の運動が始まった。イギリスで「フェビアン協会」が設立され、漸進的な労働改善運動が行われ、それがやがて社会民主主義へと発展していった。資本主義そのものを廃止するというマルクス主義も誕生した。マルクス主義は、資本主義の基本である私有財産制を否定した。
アメリカで1892年に労働者や農民の利益を代弁する「人民党(People’s Party)」が結成された。産業革命でアメリカ社会は階級社会へと変わってく。労働者や農民は産業革命の犠牲者であった。人民党は「ポピュリスト党」とも呼ばれ、党員や支持者は自らを「ポピュリスト」と呼んだ。現在のポピュリズムの原型である。19世紀後半の急激な格差拡大がポピュリズムを生み出したのと同じように、21世紀の格差拡大がポピュリズムを蘇生させ、トランプ主義を生み出した。19世紀のポピュリズムは「左派ポピュリズム」であったが、21世紀のポピュリズムは「右派ポピュリズム」である。両者に共通するのは、「反エリート主義」と「排外主義」である。
人民党は、8時間労働の実現、累進的所得税の導入、金本位制に加え、銀本位制導入によるインフレ政策の実施(インフレで農民の債務を軽減するのが目的)、鉄道や通信事業の国有化、移民規制などを政策に掲げた。その主張は国民の支持を得て、人民党は連邦議会に議員を送り込んだ。1892年の大統領選挙では4州で勝利を収めた。最終的に人民党は民主党に吸収された。南部を地盤とする民主党は、労働者や農民を支持層に組み入れた。共和党が企業を支持基盤とし、民主党が労働者を支持基盤とする構造ができあがった。
■「古典的リベラリズム」の是正を目指した進歩主義の敗北
人民党の政策は実現しなかった。だが、人民党に続いて、「古典的リベラリズム」の弊害の是正を目指す「進歩主義運動」が始まった。1890年から1920年は「進歩主義の時代」と呼ばれる。代表的な進歩主義の政治家はセオドーア・ルーズベルト大統領である。ルーズベルト大統領は大企業を「トラスト」と呼び、その活動を規制する政策を取った。「スクエア―・ディール(Square Deal)」政策を掲げ、不平等の解消を図った。同大統領は「大企業も小企業も、金持ちも貧乏人も、すべての人を公平に扱う」と語っている。1904年に『A Square Deal for Every Man』と題する本を出版している。企業に対する規制強化、消費者保護、自然保全を政策として掲げた。食品衛生管理を進め、さらに国民皆保険制度の導入も主張している。共和党は企業寄りの保守政党であったが、ルーズベルト大統領は進歩主義の政策を推進しようとした。ただ1912年の大統領選挙で、共和党の大統領予備選挙で敗北し、第3党の「進歩党」から出馬したが、敗北した。
1912年の大統領選挙で当選したのは民主党のウードロー・ウィルソンであった。彼も進歩主義を代表する政治家である。同大統領は、貧富の格差を是正するためにアメリカで初めて「累進的連邦所得税」を導入した。過去において連邦所得税導入の試みが行われたが、頓挫を繰り返した。1895年に最高裁は、連邦所得税は憲法違反との判決を下していた(Pollock対Farmer’s Loan & Trust Company裁判)。ウィルソン大統領が1913年に導入した累進的連邦所得税では、最高税率は7%であった。同時に法人税も引き上げられた。法人税は、1909年の1%から1917年に6%にまで引き上げられた。1913年に労働省が設立されている。進歩主義の時代に格差是正を柱とする意欲的な政策が行われたのである。
これは「古典的リベラリズム」を是正する試みであった。現在の「ネオリベラリズム」是正の動きと重なる。だが、第1次世界大戦後の経済ブームで「古典的リベラリズム」の弊害に対する関心も薄れていった。進歩主義は急速に後退し、共和党のタフト政権の下で「古典的リベラリズム」が息を吹き返し、法人税の引き下げが行われた。
「古典的リベラリズム」の是正を進める運動はさらに挫折する。1918年に最高裁は、「契約の自由」に反するという理由で、1日10時間以上、週60時間以上の労働を禁止したニューヨーク州の法律を違憲と判断した。同年、最高裁は、児童を使ってで生産された製品を他州に出荷することを禁止した「1916年キーティング・オーエン子供労働法(Keating-Owen Child Labor Law of 1916)」も、連邦政府が州政府の権限を犯すものであるという理由で違憲判決をくだしている。企業寄りの共和党政権の下で企業を優遇する政策が打ち出されていく。
「古典的リベラリズム」が完全に払拭されるには、アメリカ経済が大恐慌に陥り、古典派経済学が主張する市場機能が働かず、長期間にわたって高失業率が続き、フランクリン・ルーズベルト大統領の「ニューディール・リベラリズム」の誕生を待たなければならなかった。これは連載(2)で詳細に検討する。