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「ネオリベラリズム(新自由主義)」の本質の解明(2):「ニューディール・リベラリズム」と労働者の権利

中岡望ジャーナリスト
ストライキは労働者の権利ーニューディール政策の成果(写真:ロイター/アフロ)

【連 載】(リンク先)

(1) 過酷な経済格差を容認した「古典的リベラリズム」

(3)戦後の保守派の反撃

(4) ネオリベラリズムとレーガン革命

(5) クリントン政権と崩壊する「ニューディ―ル連合」

(6)「ネオリベラリズム」の日本への“歪な導入“(4月25日アップ)

【目 次】(字数:5600字)

■なぜ「ニューディール・リベラリズム」が登場したのか/■アメリカ政治を支配した「ニューディール連合」/■「ニューディール政策」の最大の狙いは「労働者の権利」保護/■ルーズベルト大統領の「忘れられた人々」に対する思い/■福祉国家のモデルとなったルーズベルトの「第二の権利章典」/

■なぜ「ニューディール・リベラリズム」が登場したのか

 連載(1)で説明したように、「古典的リベラリズム」は経済活動を市場機能に委ねれば自ずと経済は均衡する主張した。また市場における自由競争こそが最適な資源配分をもたらすと主張し、政府の市場への介入を否定した。だが大恐慌によって「古典的リベラリズム」への信頼は根底から打ち砕かれた。市場機能は働かなかった。長期に渡って不況と高い失業率が続いた。経済学者は、これを「市場の失敗」と呼び、政府による市場規制の必要性を訴えた。

 大恐慌を背景に登場したフランクリン・ルーズベルト大統領は「ニューディール政策」を打ち出した、その狙いは「古典的リベラリズム」を超克することであった。「古典的リベラリズム」は信じがたいほどの貧富の格差を生んだ。また大恐慌は「古典的リベラリズム」が引き起こしたものであり、再び大恐慌が起こらないように資本主義の仕組みを変える必要があった。人々は「古典的リベラリズム」に依拠し、企業寄りの政策をとった共和党を批判した。1932年の大統領選挙で現職のフーバー大統領は民主党のルーズベルト候補に大敗を喫した。

 「古典的リベラリズム」に終止符を打ったのは、ルーズベルト大統領の「ニューディール政策」である。その政策は「進歩主義」の政策を踏襲し、さらに押し進めるものであった。「ニューディール」という言葉は、セオドーア・ルーズベルト大統領の「スクウェア・ディール」を引き継いだものである。

 日本では、ルーズベルト大統領の「ニューディール政策」は偏った教え方をされている。政策の目的は大恐慌から脱出することであり、ケインズ経済学に依拠して公共事業が推し進めたというのが、一般的な説明である。確かにルーズベルト政権のもとで様々な雇用政策が導入され、テネシー渓谷の水力開発などの公共事業が行われた。これは「ニューディール政策」の一面を語ったに過ぎない。

 また「ニューディール政策」はケインズ経済学に基づいて行われたというのも、正確ではない。ジョン・メイナード・ケインズはホワイトハウスでルーズベルト大統領と会談している。会談が終わった後、ケインズは「大統領は経済学を理解していない」と語っている。ケインズ経済学が現在のように定式化されたのは、戦後のことである。出版間もないケインズの『一般理論』がルーズベルト大統領に理解されたとは思われない。

 また「ニューディール政策」による失業対策は成功したとは言えない。様々な雇用政策で2000万人を越える雇用が生み出され、失業率は低下したのは確かである。だが、失業率は恐慌前の1929年の3.2%や1930年の8.7%の水準にまで戻ることはなかった。政権が発足した1933年の失業率は20.6%で、最低の水準になったのは1937年の9.1%である。だが翌年の1938年に再び12.5%と二桁の失業率に戻っている。本格的に失業率が低下するのは、第2次世界大戦が始まり、戦時経済になってからである。1944年には1.2%にまで低下している。近年の経済学では、「ニューディール政策」の景気対策効果は薄かったというのが、一般的な評価になっている。

■アメリカ政治を支配した「ニューディール連合」

 ルーズベルト大統領の政策を支えたイデオロギーは「ニューディール・リベラリズム」と呼ばれている。古典派経済学の「市場至上主義」を排して、「市場の失敗」を補うために、企業活動を規制し、政府の市場介入と市場規制が導入された。「ニューディール政策」は、政府と企業と労働者の間の関係を根本的に変えるものであった。これは「修正資本主義」と呼ばれた。

 まず大恐慌を引き起こす要因となった金融市場に対して厳しい規制が導入された。「グラス・スティーガル法(1933年銀行法)」によって、証券業務と銀行業務の分離が行われた。さらに証券市場を規制するために「証券取引員会(SEC)」が設立され、企業に情報公開を義務付け、インサイダー取引を禁止する措置が取られた。

 ウィルソン政権の時に設立された「FRB(連邦準備制度理事会)」も長く財務省の影響下に置かれていたが、ルーズベルト大統領はFRBの独立性を促進し、権限を強化した。それによってFRBは独立した金融政策を行えるようになった。さらにルーズベルト大統領はFRBの建物を建設し、FRBは仮住まいだった財務省から移転した。

 格差を是正するために最高所得税税率も大幅に引き上げられた。ルーズベルト政権が発足した1933年の最高所得税率は8.8%であったが、翌年の1934年に63.0%に大幅に引き上げられた。その後、変動を繰り返したが、1944年には戦費の調達の必要性もあり94%にまで引き上げられた。こうした所得税率の引き上げで、貧富の格差は大きく縮小した。

■「ニューディール政策」の最大の狙いは「労働者の権利」保護

 「ニューディール政策」が目指したのは、労働者の保護であった。「古典的リベラリズム」のもとの資本主義では、労働者は容赦なく搾取された。労働者の権利は認められず、賃上げの要求や労働組合結成の動きは、企業と国家権力が結託して、暴力的に排除された。ルーズベルト政権のもとで1935年に「国家産業復興法」が制定され、労働組合と企業の間の団体交渉に関するルールが設定された。その内容は、企業に不況カルテル結成を容認する代わりに労働者の団結権と団体交渉権を認めさせ、最低賃金制が導入された。また所轄官庁として「全国復興庁 (NRA)」 が設立された。

 1935年に「全国労働関係法」が成立した。同法は、提案議員のロバート・ワグナー上院議員の名を取って、「ワグナー法」と呼ばれている。同法の成立で、労働組合の結成、団体交渉権の承認、ストの合法化が実現した。また組合員と非組合員の差別を禁止した。同法の最大の狙いは、企業と労働者の間にある「交渉の不公平」を是正することであった。労働者が分断されていれば、巨大な企業と対等の立場で交渉はできない。

 組合結成権、団体交渉権、ストライキ権を認めることで、労働者は初めて企業と対等な立場で交渉を行えるようになる。同法には「完全な『結社の自由』と『契約の自由』が保証されていない労働者と、企業または他の形態の所有団体で組織される雇用主との間に『交渉の不平等』が存在する」として、不平等の是正が同法の目的であると書かれている。

 さらに「全国労働関係法」では、「全国産業復興法」で規定された「最低賃金制」や「労働時間」の改訂も行われた。1938年に「公正労働基準法」が制定され、抑圧的な児童労働を禁止し、最低時給は25セント、週の最大労働時間は44時間に設定された。1937年5月、ルーズベルト大統領は「アメリカはすべての健常な労働者に、公正な労働に対して公正な賃金を与える」ことができるはずだと語っている。

 「全国労働関係法」によって組合結成が認められた。労働組合参加率は1933年の6.8%から1943年には23.7%に増えている。ストの件数も1933年の2014件から、1943年に3752件と増えている。ルーズベルト大統領の一連の労働政策は労使関係に“革命的な変更”をもたらした。さらに1935年に「社会保障法」が成立し、老齢年金制度が導入された。政府は年金制度の導入の狙いを「同法は個々の家族で対応できないリスクに対して、国家として、また国民として安全を構築する基礎である」と説明している。

 労働組合の団体交渉による賃上げに加え、移民規制で新規の労働流入が止まったことや、戦争経済への移行もあり、労働者の実質賃金は大きく上昇した。労働賃金の上昇が、戦後のアメリカ経済の繁栄の基盤となる。

■ルーズベルト大統領の「忘れられた人々」に対する思い

 疲弊した社会を再構築するためにルーズベルト大統領は「トップダウンではなく、ボトムアップでアメリカを再構築する」と主張し、「経済的ピラミッドの底辺に存在する“忘れられた人々”のために政府の資源を総動員する」と誓った。「忘れられた人々」とは、「古典的リベラリズム」の下で厳しい状況を迫られた労働者や農民のことである。ちなみにトランプ大統領も「忘れられた人々」という言葉を使っている。そこでいう「忘れられた人々」とは、「白人労働者」を意味している。

 ルーズベルト大統領を支持するグループは「ニューディール連合」を結成し、その中核となったのが労働組合と農民である。かつての「人民党」を支持した人々である。その戦列に少数民族やインテリ層が加わった。彼らはアメリカ政治を支配した。その勢いに共和党の勢力は後退し、政策を巡って分裂する事態も起こっている。

 ニューヨーク州知事で、1944年と1948年の共和党の大統領候補のトマス・デューイは、共和党は「ニューディール政策」を受け入れるべきだと主張した。これに対して、保守派のロバート・タフト上院議員は、共和党は保守主義の政党であるべきだと反対した。だが共和党は「ニューディール政策」に代わる政策を提言できなかった。

 アメリカの保守派の評論家は、「ニューディール・リベラリズム」は伝統的なアメリカの価値観を根底から覆す「無血革命」であったと指摘している。「ニューディール連合」は1970年代までの約40年間、アメリカの政治と社会を支配することになる。共和党の政策は、「ニューディール連合」を解体することであった。1980年代になって「ニューディール連合」は後退し、保守主義が台頭し始める。

■福祉国家のモデルとなったルーズベルトの「第二の権利章典」

 ルーズベルト大統領は1944年に議会でおこなった「一般教書演説(施政方針演説)」の中で、国民は以下の権利を持つと主張した。これはルーズベルト大統領の社会理念を表現したものである。

①国民は正当な報酬を得られる仕事を持つ権利を持つ

②十分な食事や衣料、休暇を得る権利を持つ

③農民が適正な農産物価格を受け取る権利を持つ

④企業は公平な競争を行う義務を負う

⑤独占の妨害を受けない権利を持つ

⑥家を持つ権利を持つ

⑦適切な医療を受け、健康に暮らせる権利を持つ

⑧病気や失業など経済的な危機から守られる権利を持つ

⑨良い教育を受ける権利を持つ

 これは「第2の権利章典(Second Bill of Rights)」と呼ばれ、福祉国家論の基本となった。過酷な競争と貧富の格差の存在こそが進歩の原動力だと主張する「古典的リベラリズム」とはまったく異なった世界観である。ちなみに、「権利章典」とはアメリカ憲法の修正第1条から10条までをいう。そこでは、集会の自由、宗教の自由などアメリカ民主主義の基本が規定されている。

■失敗に終わった共和党保守派の反撃

 当然、「ニューディール政策」に反対する動きが起こった。それは1934年に結成された「リバティ・リーグ(Liberty League)」と呼ばれる組織である。中心になったのは保守派の政治家とデュポンやGMなどの大企業の経営者であった。彼らは19世紀的な市場競争を主張し、「政府は富裕層と特権階級を守るために存在する」と主張した。さらに「ニューディール政策」によって財政赤字は拡大し、官僚組織が肥大化し、階級闘争が激化すると主張した。彼らは1936年の大統領選挙で候補者を擁立し、ルーズベルト大統領と「ニューディール政策」を攻撃した。だが、結果はルーズベルト大統領の圧勝に終わり、「ニューディール・リベラリズム」がアメリカ社会の指針となった。その後、企業家は長い沈黙を強いられることになった。さらに戦後、冷戦の始まりで、経営者は組合に対して受け身に回ることになる。

■戦後の中産階級の登場と経済的繁栄

 「ニューディール・リベラリズム」は戦後のアメリカの繁栄のベースになる。労働者の実質賃金の上昇に加え、1944年の「復員兵援護法(GI法)」によって多くの若者が奨学金を得て大学に進学した。あるいは住宅資金を借りてマイホームを建設した。彼らはホワイトカラーの中核を形成するようになり、戦後の消費ブームを支えた。最高所得税率も1945年から1952年まで90%を越える水準で維持された。1960年代半ばまで80%を下回ることはなかった。

 意欲的な所得再配分政策で、アメリカは“最も平等な社会”を実現した。郊外に庭付き戸建ての家を持ち、夫はホワイトカラーで、専業主婦の妻と二人の子供という中産階級のイメージができあがった。

 「ニューディール・リベラリズム」の影響下で、企業にも変化が出てきた。戦後、GMの経営分析をした経営学者のピーター・ドラッカーは、労働費は「変動費」ではなく、「固定費」として扱うことを主張した。それは景気が悪くなったからと言って簡単に労働者を解雇すべきではないことを意味する。さらに労働者を「企業の重要な資産として訓練すること」を提言している。1950年にGMとUAW(全米自動車労組)は「デトロイト条約(Treaty of Detroit)」を締結し、賃上げだけでなく、企業年金と医療保険の導入で合意した。利潤は経営者だけでなく、労働者にも平等に配分されるようになった。これが他の企業へも広がっていった。

 1951年にスタンダード石油のフランク・アダムス会長は「経営者の仕事は、直接影響を及ぼす利害関係者である株主、従業員、顧客、一般の人々の間の公平なバランスを取ることである」と語っている。労働者や従業員は企業の「ステークホールダー(利害関係者)」とみなされるようになった。

 経営陣の態度の変化に加え、労働組合の交渉力の強化によって賃金が上昇していった。Economic Policy Institute, “Identifying the policy levers generating wage suppression and wage inequality,(2021年5月13日)によれば、1970年代まで生産性向上と労働賃金上昇率がほぼ同じ水準にあった。すなわち生産性向上の果実の大半は賃金の引き上げに向けられていたのである。だが1970年代以降、企業と組合の力関係が変わり、経営者の生産性向上の取り分が大きく増え、賃金引上げも抑制されるようになり、労働者の配分は低水準で推移するようになる。

 だが労働者に”幸せな日”が続くわけではなかった。本連載のテーマである「ネオリベラリズム」が1980年代から登場してくる。そして労働組合は分断され、組合参加率は急激に低下してくる。それは連載(3)のテーマである。

ジャーナリスト

1971年国際基督教大学卒業、東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)、東洋経済新報社編集委員を経て、フリー・ジャーナリスト。アメリカの政治、経済、文化問題について執筆。80~81年のフルブライト・ジャーナリスト。ハーバード大学ケネディ政治大学院研究員、ハワイの東西センター・ジェファーソン・フェロー、ワシントン大学(セントルイス)客員教授。東洋英和女学院大教授、同副学長を経て現職。国際基督教大、日本女子大、武蔵大、成蹊大非常勤講師。アメリカ政治思想、日米経済論、マクロ経済、金融論を担当。著書に『アメリカ保守革命』(中央公論新社)など。contact:nakaoka@pep.ne.jp

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