「バロット(投票)にブレット(弾丸)」。安倍元首相事件と過去の政治家襲撃の記憶
現代、普遍的に用いられているニュアンスと多少異なり、日本近代史で「テロリズム」とは主に要人暗殺を指していました。社会に不安定感が蔓延している時にしばしばみられ、時の実力者を暴力でなきものとすれば流れも変わるという短慮が引き起こしがちの悲劇であったのです。
安倍晋三元首相の殺害事件は執筆時点で犯行動機など不明瞭な点が多すぎて過去のケースとの異同を論じるにのは早計。ただし要人殺害のみで社会が一挙に流動化したりはしないというのも歴史が教えています。それが民主主義の強みともいえましょう。
民主政の肝ともいえる国政選挙の投開票間際の暴挙であったのも忘れてはいけません。過去の事例を振り返りつつ、こうした「バロット(投票)にブレット(弾丸)」という卑劣な行いを胸に刻んでおきたいものです。
細川護熙・金丸信・伊藤一長の3氏
後述するように要人殺害が当たり前のように起きていた戦前と異なって戦後、首相経験者がテロに斃れたケースはありません。
構図として最も危険であったのは1994年、辞任したばかりの細川護熙前首相が都内のホテルに滞在中、後方から右翼団体の男性から銃を発射された一件です。現行犯逮捕された右翼団体の男性は天井への発砲であったため銃刀法違反容疑とはいえ、前首相の見識や政策に怒りを覚えていたと供述しており、約10メートルに接近していたため一歩間違えば大惨事となったでしょう。
首相経験者以外の大物政治家まで範囲を広げると92年には栃木県内の会場で演説を終えたばかりの金丸信・自民党副総裁を右翼が拳銃で狙った発砲事件が起きています。背景に連綿と続いてきた暴力団と政界の腐れ縁のこじれも見受けられたのです。
自治体首長の殺害で記憶に新しいのは2007年の伊藤一長・長崎市長銃撃。暴力団員の逆恨みで命を落としました。統一地方選の最中の出来事で奇しくも今回と同じ「バロット(投票)にブレット(弾丸)」の凶行として記憶に止められています。
安倍氏の祖父・岸首相も
凶器が銃以外で直接的な危害に遭った首相経験者として安倍元首相の祖父である岸信介首相も退任直前の1960年7月に登山用ナイフで襲いかかった右翼に左足を刺されています。この頃の大物政治家の多くは右翼団体を自らの威力となして裏で結びついており、岸首相の遭難も背景に党内の派閥争いがあったという見方が有力です。
さらに同年10月、総選挙を約1ヶ月後に控えて日比谷公会堂で開かれた演説会で野党第1党・日本社会党の浅沼稲次郎委員長が壇上で右翼少年に刺殺されます。テレビ中継中の惨劇で国民の多くが目撃し強いショックを与えた事件でした。
初代首相から続く遭難の歴史
冒頭に記したように要人暗殺という形のテロは大物を倒せば流れも変わるという動機を濃厚に醸し出しています。ゆえに選挙や政局、大きな政策変更の前後などに発生しやすい傾向があるのです。
戦前、テロが吹き荒れた時期は主に2回。1回目は徳川幕府が倒れて明治新政府へと劇的な政体変更がなされた時期で大村益次郎、大久保利通らが暗殺されています。2度目が昭和恐慌以降、政党の信認が下がって軍部が政治の刷新を図ろうという動きを活発化させた頃。1930年調印のロンドン海軍軍縮条約に不満をもった右翼に当時の浜口雄幸首相は狙撃され、一命は取り留めたものの国会答弁などの無理がたたって翌年死亡。33年は関東軍によって引き起こされた満州事変の結果として作られた「満州国」の承認を渋った犬養毅首相が海軍青年将校らに殺害されました(五・一五事件)。
36年の二・二六事件では現職の岡田啓介首相こそ難を免れるも斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣という2人の首相経験者が殺害されています。
現職のまま暗殺された最初の1人が原敬首相です。1910年、東京駅改札口前で少年に右胸部を刺されて死亡。動機はいまだハッキリとしません。ただ当時、原首相が進言していた皇太子(後の昭和天皇)外遊に対する一部皇族や右派の反対が世情をにぎわせており、そこが原因という説が有力です。
初代首相の伊藤博文も退任後に訪れた中国北東部のハルビン駅頭で朝鮮独立運動家に狙撃されて死亡。後に首相を拝命する大隈重信は外相当時に爆弾を投げられて右足切断の憂き目に遭っています。