相次ぐ「再審」関係のニュースから考える報道の責任。「容疑者や被告人に取材させろ」と迫るべきでは
今年は袴田巌さんの再審無罪決定(9月)に続いて10月には男性が殺人で懲役7年確定、服役した福井事件の再審開始決定が確定するなど冤罪(ぬれぎぬ)に大きな焦点が当たりました。
特に袴田事件は死刑が確定した後の再審無罪で戦後5人目。朝日・毎日・中日などの各紙が当時の報道姿勢を検証し「おわび」を掲載したのです。
この検証記事を元に、当時(事件発生は1966年)の報道の問題点や今後のありようを踏まえつつ、逮捕以降のメディアによる「犯人視」がなくなるものかを考えてみます。
「犯人視」への反省
当時の報道を朝日・毎日ともに「犯人視」するような内容と認め、主な理由として捜査当局(警察や検察)の見立てに偏った点とし「捜査側の情報に依存」(朝日)「捜査当局の見立てを疑わずに報道していた」(毎日)と振り返って「おわび」したのです。
反省に立って朝日は「捜査当局の情報を断定的に報じない▽容疑者、弁護側の主張をできるだけ対等に報じる▽否認している場合は目立つよう伝える」といった「社内指針」を決め、毎日も「無罪推定」の原則にのっとって「『犯人』と決めつける表現は避ける」「「当局による情報隠しが行われていないかを監視し、証拠の開示など適正な刑事手続きが行われているかをチェックする」重要性を挙げました。
こうした点を「改めて肝に銘じ、記者教育を徹底」(毎日)したら「明らかに人権感覚を欠い」た報道(朝日)がなくなるでしょうか。なかなか難しいと言わざるを得ません。
警察が逮捕したら今でも原則実名報道
まず逮捕報道から。いくら「断定的に報じない」にせよ警察が逮捕したら今でも原則実名でその事実を報じているのが実情です。さしたる罪でないと判断したら「男」「女」ぐらいで止めるも、容疑が殺人のような重大事件だとやはり実名となっています。近年の傾向としては、呼び捨てでなく名の下に「容疑者」と付す(80年代後半から)▽認否の状況を加える▽あたかも悪党のごとき形容を避ける、といったあたり。
容疑者へ肯定的な声を拾うのは不可能に近い
実名+容疑者への変更時、筆者は新聞社に在籍していて強い違和感を覚えたものの、30年以上経った今日では定着し、かつての呼び捨てと同程度の「悪い人」イメージを醸成しているような。人権配慮と反対方向への「慣れ」が世間に覆っているのです。
いくら容疑者側の主張を織り込むといっても逮捕から検察への送致(身柄送検)まで容疑者自身に取材できません。家族も面会できないから取材しても困惑するばかり。近隣などを聞き込んでも「逮捕」という事実を前提にしているためか容疑者へ肯定的な声を拾うのは不可能に近い。結局は警察に質す以外になく記者会見で相当突っ込んでも、その時点で警察もまた正当な行為と認識しているわけだし、何より取調中ゆえ「その点は取調中です」といわれたらそれまで。
一旦の進展を意味する大きな動きが「逮捕」
としたら現状の刑事訴訟法上の手続きを是認する以上、逮捕時点での実名報道を止めるしか手立てがありません。
でもそこまでは踏み込みにくい。犯行とほぼ同時に逮捕であればともかく犯人像が当局でもつかめなかったり、逃亡していたら「○○という事件があった」の報で世情が騒然としているなか一旦の進展を意味する大きな動きが「逮捕」ですから。
送検以降の「接見等禁止」を批判する雰囲気がない
次の段階は送検以降の勾留期間となります。拘置所にいる容疑者への取材可能ながら検察の請求などで裁判所が接見等禁止を決定したらできません。手紙のやりとりすら不可です。
弁護人(ほとんどの場合は弁護士)だけは接見できるも、勾留中に弁護人をつけるかどうかは主として容疑者の判断で、つかないケースが出てきます。となると「弁護士に聞く」という手法すら取材者が行使できないのです。
この「接見禁止」の法的根拠は刑訴法の「逃亡し又は罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由」がある場合。身柄を押さえられているので「逃亡」も「罪証隠滅」もできまいと思うものの実際には重大事件で否認や黙秘していたら裁判所はまず認めます。
「当局」を「監視し」「適正な刑事手続き」がなされているか確認したくば接見禁止の慣習を批判するべきです。特に冤罪の場合「私はやっていない」と明白に知るのは容疑者自身だから否認して当然なので。しかしここを強く批判する雰囲気ではありません。送検後の報道は主として「起訴された」時点。1つの容疑で最大20日、再逮捕を繰り返せば「×2」「×3」と勾留期間は延びていきます。これに参ってやってもいない罪を認める容疑者も過去事例から多いとわかっているのに。
「法廷での肉声」しか被告人から直接情報を得られない
起訴されて以降は公開の法廷で被告人(起訴時点で容疑者から呼称が切り替わる)のナマの声も聞けるようになります。保釈されれば自由な取材も可能。ただし重大事件の場合たいてい検察が保釈請求を「不相当」と意見し、裁判所も認めがちです。さらに接見禁止も相変わらず続く傾向が強い。「法廷での肉声」しか被告人から直接情報を得る手段が報道陣にないままとなります。
結局、裁判の節目である初公判(起訴状朗読や罪状認否など)、論告求刑・最終弁論、判決あたりを押さえておくとなりがち。よほどの事件でない限り証拠調べ手続きを含むすべての審理をウオッチする取材者は滅多にいないのです。
受刑者への取材も難しい
「罪と罰」が確定して以降はどうでしょうか。死刑囚には全く直接取材できません。無期ないし有期刑の受刑者だと弁護士に加え家族などは会えますが取材者が面会できるかどうかはひとえに刑務所の判断にかかってきます。
以上、どの段階においてもメディアが「適正な刑事手続きが行われているかをチェックする」のはひどく難しいのです。
2010年以降の無期懲役確定後の再審無罪が既に4件
殺人罪(を含む罪)で無期懲役が確定した後に冤罪とわかって再審で無罪となったケースは2010年以降でも10年(再審無罪確定年。以下同)の足利事件、11年の布川事件、12年の東電OL殺人事件、16年の東住吉事件と既に4件。ここに死刑判決の袴田事件を加えて5件です。
さらに日野町事件(無期懲役確定)は18年に地裁が再審開始決定し高検が最高裁へ特別抗告中。近く結論が出るとみられます。有期刑まで含めるとだと20年の湖東事件(懲役13年)が該当。
殺人罪より罰が軽い犯罪まで広げれば冤罪はいくらでも。氷見事件(懲役3年)のように服役後に真犯人がみつかって地検側が再審請求して無罪というとんでもないケースすら珍しくない……といって過言ではない様相です。
冤罪を推認させる事件もまだ結構ある
殺人罪で死刑が確定して現在、再審請求中の事案になかには「執行を免れるためでは?」と疑わしいものもあるとはいえ逆に「これは……」と冤罪を推認させる事件もまだ結構あります。
ハンセン病の元患者男性が殺人で死刑執行された菊池事件は「特別法廷」で裁かれた結果です。遺族が起こした国家賠償請求訴訟(民事)で20年、地裁が「特別法廷での審理は憲法違反」と判決し後に確定。これらを根拠に再審請求中で検察側の「憲法的再審事由」は再審開始の理由に当たらないとの主張と対峙中。堂々と「冤罪である」というドキュメンタリーまで放送されている、一度は再審開始決定も出た名張毒ぶどう酒事件(死刑囚は病死)の再審請求も続いているのです。
有期刑(懲役10年)の大崎事件もまた再審開始決定が出るも取り消され現在も再審請求審で係争中。
時効撤廃で新たに課された捜査当局と報道の役目
マスコミが過去の報道を率直に反省して今後に生かすのは評価できます。ただ上記のような状況は袴田事件が発生した60年代と大して変わりなく近年は警察側のマスコミへの情報提供が減少しているとさえ指摘できる状態です。おどろおどろしい形容を控えて事実を淡々と伝えてよしとする程度で冤罪被害者の人権は救えません。せめて「容疑者や被告人に取材させろ」と迫るぐらいはしてほしい。
冤罪は同時に真犯人を野放しにするという弊害があります。この点で刑訴法が10年に改正されて殺人罪などの公訴時効が撤廃されたのも極めて重要です。再審無罪事件でも再捜査できる、というかしなければなりません。いかなる捜査をしているのかを報道する新たな役目を課されたといえます。
「我々自身の判断で煽ったのではないか」
「おわび」にあった「捜査側の情報に依存して事実関係を誤り」(朝日)「捜査当局の視点に偏った記事が目立ち」(毎日)も本当にそれだけかというさらなる検証がほしい。何だか当局が偏っていて取材側が見抜けずに付き合わされた風。むろんその要素も大いにあったのでしょうけど「我々自身の判断で煽ったのではないか」まで突っ込んでくれたらと思います。