11月半ば以降に行われる首相指名選挙で石破続投を覆すには「野田佳彦」以外の選択肢が野党にほしい理由
衆議委員議員総選挙が終わって与党(自民党と公明党)が合わせて215議席と過半数(233議席)を割り込む惨敗を喫しました。状況が流動的ながら現時点で石破茂首相は総辞職しない意向。となれば焦点は憲法が命じる、投票日から数えて30日以内に召集される国会(特別国会)で行われる首相指名選挙がどうなるか、です。憲法などの規定や過去のケースを元に推察してみました。
30日以内に石破内閣は総辞職しなければいけない
まず押さえておかなければいけないのは総選挙の結果がどうであれ、内閣は前記の「30日以内に召集される国会」で「総辞職をしなければならない」(憲法70条)点です。この規定がさほど注目されないのは自民党結成(1955年)以来、ほとんどの選挙で自民単独および自民中心の連立政権が過半数を得、70条による総辞職後の首相指名選挙(後述)で再任されていて形式化するケースがほとんどであったから。
あるいは開票結果を敗北と認識して首相が辞任し、30日間で大急ぎで選んだ後継が、その後の追加公認などで過半数のメドを得て特別国会で新首相に選出されてきました。
例外は2回。うち2009年総選挙は民主党1党に過半数を制せられて為す術なく政権交代を問答無用で余儀なくされたので今回と異なります。似ているのが93年総選挙。与党(当時は自民単独)が過半数に33議席も及ばず、といって野党も皆それ以下。この時は小沢一郎氏(現在は立憲民主党所属)の「剛腕」が発揮されて非自民連立の細川護熙政権が誕生したのです。
無所属当選者を加えても与党過半数に足りない約12人
27日の投開票日+30日以内となると特別国会は引き延ばしても11月中下旬となります。召集権は首相にあるため中旬ぐらいまでかかりそう。
というのもその間に与党が多数派工作したいはずだから。首相指名選挙は衆参ともに行われるとはいえ憲法の規定で最終的に衆議院の議決が優先されます。過半数に足りない233-215=18議席を埋める算段をするでしょう。
今回の総選挙はいわゆる「裏金非公認」の自民系が参院から鞍替えした世耕弘成氏を含めて4人当選してます。他に選挙区事情などから自民系とみられる無所属当選者が2人ほどいて計6人。まずここに「首相指名選挙は石破茂と書いて下さい」との応諾を取りつけて、残り約12人。これがなかなか見通せません。
「玉木雄一郎」でまとまれるか
他方、野党も細川政権のように非自民で一本化できるかというと極めて困難です。当時の細川氏は野党第3党の党首に過ぎませんでした。それを第2党の小沢氏ら新生党および第1党の日本社会党が譲ったからまとまった側面が大きい。今回で当てはめれば立憲と日本維新の会が候補を立てず国民民主党の玉木雄一郎代表でまとまるという構図となります。果たして野田佳彦立憲代表が取れる選択肢なのか。
「石破茂」「野田佳彦」の決選投票だと首相続投が濃厚
かくして与野党とも衆院過半数のメドが立たないまま首相指名選挙へ突入したとしましょう。与党(+無所属数人)が「石破茂」を、野党がそれぞれの党首名(野党系無所属は近しい政党)を書いたら過半数を得る者が出なくなるはずです。この場合の過半数とは無効票を含む投票総数が分母だから多くの棄権者が出たら結果も違ってくるものの国民大注目の総選挙後の首相指名でそうなるとは想定しがたいので除外して推察を進めます。
としたら現有議席から推して「石破茂」「野田佳彦」2人の決選投票となる公算大。決戦の勝者は「1票でも多い者」です。「石破茂」票が215+αで「野田佳彦」票は立憲獲得議席148+α(立憲系無所属)だと首相続投が濃厚となります。
連立合意と必ずしもイコールではない
細川政権のひそみにならって「玉木雄一郎」または日本維新の会の「馬場伸幸」代表名で統一できないとしたら決戦投票における「野田佳彦」票積み増しは他野党の協力が不可欠。ここで大切なのは首相指名選挙はあくまで「石破」「野田」のどちらの名を選択するかであって必ずしも連立合意と必ずしもイコールではない点です。どちらになろうが是々非々で対応するという党意でも、よりましと支持者が判断してくれる結果に傾いても構いません。
どうしても「どちらも嫌だ」となれば1回目と同じく自党党首に入れてもいいのですが、決戦ではすべて無効票になってしまうので、それはそれで批判を受けるおそれも生じるのです。
「細川護熙」「村山富市」首班から共通点を探る
自民党結成以後、首相指名選挙で決戦までもつれこんだのは2回。うち1回は自民党内抗争で自民同士の戦いとなっており今回と様相が異なるため考察の対象とはしません。
もう1回は細川内閣後に成立した羽田孜政権総辞職後の1994年。野党だった自民党が宿敵だった日本社会党の村山富市委員長(党首)を、細川-羽田政権の非自民与党が自民党で首相まで務めた海部俊樹氏を、それぞれ担いで挑んだのです。当時の社会党は自民よりはるかに小さな勢力でした。
海部派は自民党内に根強い社会党アレルギーを期待して分裂を誘発しようとしたものの決戦に至るや1回目に海部支持の自民党議員が村山支持へ回帰(あるいは無効票)して村山首相誕生となりました。
このケースおよび細川政権成立から共通点を探ると野党側が勝つには第1党ではなく、あえて譲歩して第2党以下の党首を立てないとまとまりにくいとわかります。