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読売新聞「千人計画」特集が覆い隠す日本の基礎科学の危機

榎木英介病理専門医&科学・医療ジャーナリスト
日本の基礎科学が「斜陽」となりつつある現実を直視せよ(写真:kimkimchin/イメージマート)

悪夢のシナリオ

 ある小話をひとつ。

 あなたは日本の大学を定年退職後、日本の省庁所管の独立行政法人に勤め始めた研究者だ。配属先は中国事務所。現地中国の大学の教授も兼任することになった。もちろん所属先の承諾を得た上であり、給与は日本の所属先からもらっている。中国の大学から給与は受け取っていない。日本での実績が評価され、「千人計画」に参加することができた。

 そんなあなたの所属先に日本の大手新聞から取材依頼があり、中国に関するテーマだったこともあり、匿名を条件に取材を受けることとなった。

 数ヶ月経ったある日、友人から「これはあなたのことでは?」と声をかけられた。見せられた新聞には自分が。

 中国の千人計画に参加するために、中国の大学に高待遇で引き抜かれ、その引き換えとして軍事関連技術を流出させている…。

 一面トップ記事だ。年齢、研究分野、中国での兼任先、日本で所属していた大学名などが記されており、個人特定が容易にできる記述であった。

 給与は中国の大学からではなく、日本の本務先から出ているのに、そのことは一切説明がない。また、もともと軍事技術からは遠い基礎研究を行ってきたはずだし、自分の専門分野は中国のほうがはるかに進んでいるため、「技術流出」は無理筋だ。

 ネット上では「軍事スパイ」「売国奴」と実名でバッシングされた。

 悪夢のような話であるが、これはフィクションではない。2020年5月、読売新聞が掲載した記事だ。

[安保60年]第2部 経済安全保障<1>技術狙う中国「千人計画」

 当時この記事はさほど注目されなかったが、日本学術会議の会員の任命拒否が問題化した際、甘利明衆議院議員がブログに書いていた記事が発端となり、中国の千人計画が「外国人を高給で引き抜き、軍事研究や技術スパイをさせるためのものである」「それには日本学術会議の会員が関わっている」との流言が拡散した際、この記事のスキャン画像が拡散した。

 また、その記事は、その後読売に所属する他記者によって別メディアでも盛んに取り上げられている。

米国が「経済安保」に本気で取り組むワケ

一面記事連発

 この5月の記事が「バズった」ためだろうか。読売新聞は今年1月以降、何度も「千人計画」に関する記事を一面で掲載している。その皮切りの記事は、多くの読者が読む元旦の号の一面に掲載されたのだ。「千人計画」打倒のキャンペーンを行っているようだ。

 しかし、いずれも昨年5月の記事同様に問題が多いと言わざるを得ない記事ばかりだ。しかもその問題点は当の読売新聞自身が文化部の記事で指摘していたのだ。

「Qアノン」「千人計画」…陰謀論が広がる背景は

 安全保障が重要なのはどの国でも同じで、決してタブー視すべきではない。しかし、事実に反した陰謀論に呑まれたものであっては、冒頭で挙げたような日本人研究者への無理筋なバッシングを生むだけでなく、日本の基礎科学や安全保障にもむしろ悪影響となるのではないか。

 なお千人計画に関しては以前書いた記事を参照されたい。

正しく恐れよ「千人計画」

 上記記事では、日本人の研究者、特に軍事や産業技術から遠い基礎研究者、若手中堅の研究者が中国へ異動することを一律にバッシングするのは筋違いであることを指摘した。

 本稿では、読売新聞の一連の記事の問題点を指摘した上で、日本の基礎科学が抱える問題を解決するために何をすべきかを考えてみたい。

読売新聞記事の「前提」

 下記は1月以降読売新聞が「千人計画」に関連し掲載した主な記事である。ウェブ上の記事をリンクしたが、誌面では前述の通り一面にも掲載されるなど大きく取り上げられている。

 昨年の5月記事を含め、これらの記事の根底に以下のような前提があるようだ。

  1. 中国は軍事応用を目的とし日本の先端技術を獲得するため、日本人の大学研究者を狙っている
  2. そのために「千人計画」を通し、高待遇での引き抜き攻勢を行っている
  3. 安全保障に関わる技術流出は問題である
  4. そのための対策として海外からの研究費の申告義務化を行うべきである。

 これらを検討していこう。

中国は軍事応用を目的とし日本の先端技術を獲得するため、日本人研究者を狙っている?

 「千人計画」は軍事や応用分野に限ったものではなく、自然科学の分野を幅広く対象としたものであり、むしろ基礎科学分野の研究者が多い。しかも採択者の圧倒的多数が中国出身だ。

 そのことから、この計画は軍事技術を主な目的と考えるよりも大学の基礎研究力の底上げ、大学ランキングの向上を狙った補助金政策であるのが実態であるといえるだろう。実際、千人計画開始以降、中国の大学の世界ランキングは大幅に上昇している。先日も分野別のQS世界大学ランキングが発表されたが、東大よりランキング上位の大学が多数ある。

2021年版 科目別(研究分野別)QS世界大学ランキング - QS World University Ranking by Subject 2021-発表

 また、「千人計画」に類似するプログラムは日本にもあり、「国際共同研究加速基金(帰国発展研究)」として海外の日本人研究者対象が帰国した際、5000万円の研究費を支給する。人材招聘プログラムは世界各国にあるのだ。

中国の高度人材呼び戻し政策 日本学術振興会 北京研究連絡センター

国際共同研究加速基金(帰国発展研究)

 しかし、読売新聞の元旦記事ではそういった視点は一切みられず、「44人」という見出しを含め、外国人を対象とし、軍事関連の技術を狙った秘密のプロジェクトという印象をあたえる構成となっている。

中国「千人計画」に日本人、政府が規制強化へ…研究者44人を確認

高待遇での研究者引き抜き攻勢を行っている?

 中国の大学に所属する日本人研究者は、千人計画の採択者やそれら以外を含め、主に「若手中堅」と「日本を定年後のシニア」に分けることができる。

 若手中堅については、そもそも引き抜きというより、日本の大学が厳しい状況にあり、日本に職がなかったというパターンが多く、給与も「相場は「年収450万~750万円」」と決して高額ではないようだ。

 また、シニアについても、かなり有名な研究者ですら「日本の大学で勤務時と同額を保証」だという。そしてそれらシニアについても、日本の国立大学を定年後、日本に職がなく、やむをえず定年後中国で研究というパターンが多いようである。以前は私立大学等が定年者の受け皿になっていたが、私立大学が自前で研究者を養成しつつあるので、そのルートは簡単ではなくなったのだ。

 また研究分野も、読売新聞が心配しているような応用研究者より、天文といったような「日本で支援が得られず職がなくなっている基礎分野」の研究者が多い。さらには、そもそも日本から「流出」させるどころか、科学技術の多くの分野で日本よりも中国のほうが大きくリードしているという事実もある。

中国の大学に移った日本人研究者が明かす「海外流出」の事情

科学論文の引用回数 米中が各分野の1位独占 日本はなし

 このような事情を考えると、千人計画の採択の有無を問わず、中国へ渡る日本人研究者が増えている問題の本質は、「軍事応用を狙った高給引き抜きによる技術流出」ではなく、「中国が近年研究レベルを向上させる一方、日本では研究環境悪化が続き、基礎科学の人材が流出している」というところではないだろうか。

 しかし、読売新聞の一連の記事にはそのような視点は一切みられず、「日本のほうが進んでおり、中国へ高待遇で引き抜かれている」という印象をつくろうとしている。

中国「千人計画」、日本人研究者らに論文ノルマ…「著名な科学誌に2本」要求

 この記事が書く「論文ノルマ」は、「千人計画」は何の関係もない。研究者としての地位の維持に論文数が要件になっているのは「千人計画」だけではなくよくあることなのだ。

 確かに以前はそのような論文ボーナスが高額なものもあったようだが、むしろ最近の中国政府の方針は、数字ありきの評価の弊害を認識し改善しつつある。

中国、研究評価におけるSCI論文と関連指標の使用を規制

 その点も当然?読売の記事では一切触れられていない。

安全保障に関わる技術流出は問題である

 安全保障に関わる技術流出が問題なのは論を俟たない。

 しかし、これまで述べたように「千人計画」を含め、中国に渡る日本人研究者の多くは軍事や産業技術から遠い基礎研究者である。その成果は論文として世界に公表されるため、中国だけにその知見がいきわたるものではない。また、応用寄りの研究者についても「経済産業省の許可をとった上で渡航している」ことが、読売の記事自身にも記載されている。注意深く読めば…。

安全保障貿易の概要 リスト規制

 これら安全保障上の規制に反する行為は犯罪行為であり、処罰されるべきであろう。しかし、安全保障関連技術とは無縁な基礎分野の研究者は言うに及ばず、応用研究の研究者についても、経産省に確認を行っている以上、安全保障上のリスクは低い。研究者個人をバッシングすることは完全に筋違いと言わざるを得ない。

「売国奴」「スパイ」千人計画でバッシングに。日本人研究者たちが鳴らす警鐘とは?

 筋違いであることを隠すためか、読売新聞は「どんな技術でも軍事転用可能」と言わんばかりの記事を出している。

留学生らの出身組織確認、私大4割が実施せず…軍事技術の流出懸念

 「自動車技術は回転と関係するので、ウラン濃縮のための核開発になる」とのことだが、かなり飛躍がある。それをいうならば、自動車メーカーが自動車を中国に輸出することも禁止すべきと主張すべきではないのか。

 また、論文が公表されるような基礎研究の成果も、長期的には軍事につながりかねないというのであれば、日本の大学に所属する日本人研究者が発表した論文がそのようなことにもなりえるが、今後日本の大学から論文発表をやめろとでもいうべきなのだろうか。

 本来はどこまでセーフでどこからアウトなのか「切り分け」が重要であり、そのための安全保障貿易におけるリスト規制である。そのセーフとアウトのラインの切り分けが重要であり、極端な対応は国益を損なうものであることは、対中強硬派のトランプ政権高官(当時)ですら主張しているのだ。

U.S. targets only one percent of Chinese students over security: White House official

 荒唐無稽な「何でも軍事転用可能論」は日本の国益を損なうものであると言わざるを得ない。

海外からの研究費の申告義務化を行うべき?

 日本在住の大学の研究者に対して、外国から研究費を受け取った場合の申告義務化に反対する理由はない。

 しかし、これが「千人計画」の対策であるというのであれば、有効性は乏しいと言わざるを得ない。

 強いてあげれば、「日本の大学に勤務し続けながら、中国の大学にも所属し、二国で研究室を展開する」場合にはある程度有効だろう。特にアメリカでは二か国から給与をもらいながら、税申告をせず、脱税で摘発されているケースもある。もちろんそれは犯罪である。ただ、そもそも中国にいる日本人研究者の多くは、若手、シニアを含め、中国の大学にフルタイムで勤務をしているため、これらの申告義務化とは関係ない

 「千人計画」もフルタイム勤務型が多数である。アメリカなどで問題になっている「千人計画」のケースの多くはパートタイム型である一方、今後はフルタイム勤務型が千人計画では必須となることを、最近毎日新聞が報道した。

千人計画、衣替え 技術力接近、続く対立

 中国でフルタイム勤務している場合、海外研究費の申告義務によって研究者が中国へ異動することを止めることはできないだろう。安全保障貿易のリスト規制と関係がないような基礎研究分野の研究者であればなおさらである。

中国の「千人計画」念頭、外国の研究資金に申告義務…すでに審査開始

 読売新聞は、「千人計画」の対策として海外研究費の申告義務化を繰り返し訴えているが、実効性のない対応が有効であるように繰り返し、取り上げるのは問題の解決にはならず、問題を覆い隠すだけであろう。なぜこのようなことを書くのだろうか。

真の問題に光を

 安全保障貿易関連の規制リストに違反することや給与の二重取りによる脱税はまごうことなき違法である。また、海外からの研究費申告義務に反した場合も罰則があるべきである。

 しかし、それらと関係なく中国へ渡った日本人研究者を「高給で軍事技術を中国に売った」と筋違いなバッシングを展開することは、日本の基礎研究の危機を覆い隠し、長期的には国力の衰退をもたらし、安全保障にも悪影響がでるのではないか。

 当の中国でも、文化大革命以降、とくに80年代、90年代は活躍の場を求めてアメリカなどに多くの研究者が流出したが、海外へ渡る研究者へのバッシングは強く、それが中国人研究者の海外流出を加速させたという過去がある。それに対する中国人研究者を中心とした呼び戻し政策が「千人計画」だったのだ。

 大新聞の影響力は少なくない。個々の研究者へのバッシングではなく、まずは日本の基礎研究環境の改善や基礎科学への地道な支援の重要性を訴えていくことが必要なのではないだろうか。

 読売新聞には、科学部を中心に、日本や諸外国の科学研究に造詣の深い素晴らしい記者が数多くいる。京都大学理学部を出て読売新聞の記者になられた三井誠記者の著書は「科学ジャーナリスト賞」を受賞している。

光文社新書『ルポ 人は科学が苦手』が「科学ジャーナリスト賞2020」を受賞&著者・三井 誠さんからの喜びのコメントも公開!

 先にあげた文化部の記事もそうだが、冷静に状況を分析することができる記者の方々がいる読売新聞には、大いに期待している。是非その期待に応えてもらいたい。

病理専門医&科学・医療ジャーナリスト

1971年横浜生まれ。神奈川県立柏陽高校出身。東京大学理学部生物学科動物学専攻卒業後、大学院博士課程まで進学したが、研究者としての将来に不安を感じ、一念発起し神戸大学医学部に学士編入学。卒業後病理医になる。一般社団法人科学・政策と社会研究室(カセイケン)代表理事。フリーの病理医として働くと同時に、フリーの科学・医療ジャーナリストとして若手研究者のキャリア問題や研究不正、科学技術政策に関する記事の執筆等を行っている。「博士漂流時代」(ディスカヴァー)にて科学ジャーナリスト賞2011受賞。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。近著は「病理医が明かす 死因のホント」(日経プレミアシリーズ)。

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