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研究者の科学的発信に客観中立はあるのか? 日本気象学会一般公開シンポジウムより

江守正多東京大学 未来ビジョン研究センター 教授

5月23日(金)13:30~17:00に、横浜市開港記念会館において、日本気象学会の一般公開シンポジウムが開かれる(参加費無料)。テーマは「気象学における科学コミュニケーションの在り方」だ。筆者はこの中で、「研究者の科学的発信に客観中立はあるのか?」というタイトルでお話させて頂く。以下に、シンポジウム冊子に掲載された筆者の講演要旨を転載する。興味のある方はぜひお立ち寄り頂きたい。

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1.はじめに

2013年のAmerican Geophysical Union Fall meetingにおいて、故Stephen Schneider(スタンフォード大学教授)の名を冠したレクチャーとして、NASAのGavin Schmidtが「科学とアドボカシー」についての講演を行い、一部で話題になった(1)。アドボカシーとは、特定の(政治的な)立場を擁護することである。Schmidtは気候科学者が気候科学について発信するブログ、「Real Climate」(2)の中心メンバーであり、人為起源地球温暖化の科学に対する懐疑論に対抗してきた人として知られている。米国などいくつかの国では、人為起源地球温暖化に対する懐疑論が一部の産業界などにより組織的に展開されているといわれており (3)、気象学を含む気候科学は、いわば政治的な論争に巻き込まれている。この状況が、Schmidtなど、その論争の直中にいる科学者たちに、科学とアドボカシーについて深く考える機会を与えているものと思われる(Stephen Schneiderはその先駆者であった)。

筆者も日本国内において似たような状況に立たされ (4)、同じような問題を考えてきたため、Schmidtの講演はたいへん興味深いものであった。本稿では、Schmidtの講演の概要を紹介することを通じてこの問題を概観し、それに続いて、自分の考えてきたことを述べたい。

日本気象学会において、このような議論の必要性を現時点で実感している人はそれほど多くないかもしれない。しかし、言うまでもないことだが、地球温暖化問題に限らず、気象学は社会との様々な接点を持っており、ときにその一部が政治的な論争に巻き込まれうる。直近の経験でいえば、2011年の東日本大震災後の放射能拡散シミュレーションの取り扱いを巡る論争を通じて、日本気象学会がメディアやネット上の言説において批判的に取り上げられたことが記憶に新しい。あなたが科学者として発言した内容が、社会的な文脈に応じて、さまざまな利害関係者にさまざまな意味で受け取られる可能性がある。より頻繁に生じる気象災害などをめぐっても、同様のことは起こりうるだろう。もしくは、あなた自身の専門分野が論争的なテーマと直接関係無かったとしても、同じ「気象学者」であるというだけで、社会はあなたと論争的なテーマを同一視してくるかもしれない。このような意味で、「科学とアドボカシー」は、多くの気象学者が考える価値のある問題だと思う。

2.Gavin SchmidtのAGU講演から

素朴には、「科学者のアドボカシーは、科学の客観性、中立性を脅かすため、避けるべきである」という考え方があるが、Schmidtの話はこれを相対化する。あらゆる発言は「…すべき」という規範的内容を含むならば、アドボカシーである。たとえば、「温暖化対策をもっとすべきだ」というのはもちろんアドボカシーだが、「研究をもっと推進すべきだ」というのもアドボカシーだし、「科学者は社会にもっと発信すべきだ」というのもアドボカシーである。そう考えると、何かを発言する際に、アドボカシーを完全に避けることはかなり難しい。言い換えれば、客観、中立なことだけを発言することはかなり難しい。

また、現代社会では科学の政治化(politicized science)が進んでいる。政治的な関心が高い科学分野ほど「Nature」や「Science」に論文が載りやすく、メディアに取り上げられやすく、研究予算が付きやすい。同時に、政治の科学化(scientized politics)が進んでいることをSchmidtは指摘する。政治的な論争は、現代では科学の言葉で行われることが多い。つまり、本質的には価値や利害の争いである論争が、双方の陣営に都合のよい科学的(あるいは「科学っぽい」)根拠を並べ立てる形で争われているのである。

このような認識に基づいて、Schmidtが勧めるのは、個々の科学者が「無責任なアドボカシー(irresponsible advocacy)」であることを避け、「責任あるアドボカシー(responsible advocacy)」の立場を取ることだ。「無責任なアドボカシー」は、1) 自分の価値観を偽ったり隠したりする、2) 自分の政治的立場の根拠を明示しない、3) 自分の支持する科学的知見が万人に支持されると勝手に思っている、ことによって特徴づけられる。一方、「責任あるアドボカシー」は、1) 自分の価値観を誠実に表明する、2) 自分の価値観と政治的立場の関係を明示する、3) 自分の支持する科学的知見と万人の支持する知見を区別する、4) 価値観が違えば政治的立場も違いうることを認める、5) 自分の価値観が自分の客観性を脅かしうることを認識して常に注意を払う、といったことで特徴づけられる。

3.さらなる考察

筆者は、「科学者は責任あるアドボカシーであるべきだ」というアドボカシーを支持する(この支持表明自体もアドボカシーだ)。勝手な想像を付け加えるとすれば、Schmidtは、米国において懐疑論(あるいは温暖化対策反対)の立場から論争に参加している論者の多くに「無責任なアドボカシー」の姿を重ねているように思われる。また、Schmidtの話から、科学者の話を聞く(非専門家の)側のリテラシーの問題として、話し手が「無責任なアドボカシー」と「責任あるアドボカシー」のどちらなのかを考えながら聞き、話し手の質を見抜けるようになるべきだという含意をくみ取ることができると思う。

その上で、自分がこの問題について今まで論じてきたことを述べたい。結論からいうと、筆者はSchmidtの講演のようにいろんなアドボカシーをいっしょくたに論じるのではなく、特定の政策についてのアドボカシー(たとえば、「原子力発電を推進すべきだ」)と、よりメタレベルのアドボカシー(たとえば、「政策判断は科学的根拠に基づくべきだ」)は区別したほうがよいと考えている。そして、科学(特に、論争となっている問題を根拠づける分野の自然科学)の専門家は、特定の政策についてのアドボカシーはしない方がよいと論じてきた。例えば、気候科学者は、特定の温暖化政策についてのアドボカシーをしない方がよいと思う。

理由の一つめは、個々の科学者のコミュニケーション戦略として考えた場合に、アドボカシーをしない方が、コミュニケーションできる相手の幅を狭めなくてすむということである (5)。科学者がアドボカシーを行うと、立場の近い相手に対しては強いメッセージが届く効果があるが、もともと反対の立場を取る相手に対してはメッセージが拒否されやすく、同時に、その科学者が説明する科学的内容にまでバイアスがかかっているものと疑われやすくなってしまう。したがって、さまざまな政治的立場を持つ多くの人と科学的内容のコミュニケーションを行おうとするならば、アドボカシーをすることは得策ではないだろう。

もう一つの理由は、科学者がアドボカシーをすると、反対の立場のアドボカシーの声もこれに対抗して大きくなることで、玉石混淆の情報の流通量を増やし、議論の空間(たとえばメディアやネット上)全体でみた場合でも、議論がやりにくくなることが懸念されることである (6)。いわば、情報のノイズレベルが上がってしまうということだ。科学者がアドボカシーを避け、できるかぎり科学的な事柄に限ってコミュニケーションを行うならば、さまざまな質の情報を整理し、逆にノイズレベルを下げることに貢献できると思う。

個々の科学者が政治的な立場を持つことは自然なことであるし、誰にも止めることはできないし、止めるべきでもない。「責任あるアドボカシー」として、自分の価値観や政治的な立場を明言することも、むしろ望ましい。しかし、だからといって、特定政策を擁護する主張を科学者がする必要は特にないと筆者は思う。そのような主張をするかどうかは最終的には個々の科学者の自由だが、「しない方がコミュニケーションの効率がよいのではないか」というのが筆者の意見である。

文献等

(1) Gavin Schmidt, 2013: Stephen Schneider Lecture (GC43E 01)- AGU 2013 Fall Meeting. Youtube,http://www.youtube.com/watch?v=CJC1phPS6IA

(2) Real Climate,http://www.realclimate.org/

(3) 例えば、Jacques et al., (2008): The organisation of denial: Conservative think tanks and environmental skepticism. Environmental Politics, 17, 349-385.

(4) 例えば、赤祖父ほか (2009): 新春e-mail討論 地球温暖化: その科学的真実を問う. エネルギー・資源, 30, 3-22.

(5) 江守正多 (2011): 温暖化リスクコミュニケーション. 科学技術社会論研究, 9, 13-23.

(6) 江守正多 (2013): 地球温暖化問題における専門家の責任と社会の責任: シンポジウム「地球温暖化問題と科学コミュニケーション: 哲学者と科学者と社会学者が闘論」に「科学者」の立場から参加して. 科学技術コミュニケーション, 14, 46-54.

初出:日本気象学会2014年度春季大会一般公開シンポジウム冊子

東京大学 未来ビジョン研究センター 教授

1970年神奈川県生まれ。1997年に東京大学大学院 総合文化研究科 博士課程にて博士号(学術)を取得後、国立環境研究所に勤務。同研究所 気候変動リスク評価研究室長、地球システム領域 副領域長等を経て、2022年より現職。東京大学大学院 総合文化研究科で学生指導も行う。専門は気候科学。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)第5次および第6次評価報告書 主執筆者。著書に「異常気象と人類の選択」「地球温暖化の予測は『正しい』か?」、共著書に「地球温暖化はどれくらい『怖い』か?」、監修に「最近、地球が暑くてクマってます。」等。記事やコメントは個人の見解であり、所属組織を代表するものではありません。

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