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世界幸福度ランキング、日本が58位に低下した理由は本当に正しいのか

遠藤司皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー
(写真:アフロ)

 3月20日、国連は「世界幸福度報告書」2019年版を発表した。

 日本の順位は2016年から、53位、51位、54位ときて、今年は58位である(156か国中)。この三年の間、徐々に順位を下げてきているのが実情だ。

過去の記事にも書いたが、このランキングは、調査会社ギャラップの国際世論調査にある「自分にとって最良の人生から最悪の人生の間を10段階に分けたとき、いま自分はどこに立っていると感じるか」という質問(キャントリルの梯子の質問)への回答によって、幸福度をランキングしたものである。一人当たりGDPとか社会的支援といった項目が挙げられているため、これらの数値を総計したものと思う人もいるかもしれないが、それは間違いだ。あくまでも項目は、それらを用いて幸福度を説明しようとしたものにすぎない。

 質問内容でもわかるように、この調査結果は、いまの自分が感じているハッピーな気分の度合いをあらわすものではない。端的に言って、あなたは有意義な人生を送っていると思うか、と聞いているのである。したがってまた、個々が想定する「最良の人生」の内容は、ここでは問われない。牧歌的に生きるのが最良であると考える人もいるし、革命家として生きるのが最良と考える人もいるだろう。

 国連の考える幸福度の指標は、わが国においても本当に当てはまるのか。より詳細に眺めていく必要があるように思う。

国連による幸福度の指標

 国連の考える幸福度の指標は、一人当たりGDP、社会的支援、健康寿命、人生の選択の自由度、社会的寛容さ、社会の腐敗度の6つと、全項目が最低である架空の国(ディストピア)との比較である。先に述べたように、有意義な人生をこれらの指標によって説明しようというのが、国連の試みである。(項目の内容は25ページ:Detailed information about each of the predictors in Table 2.1

 日本が足を引っ張っているのは、人生の選択の自由度(64位)、社会的寛容さ(92位)である。このうち自由度は「あなたは自分の人生で自分がすることを選択する自由に満足か不満か?」という質問への回答結果であり、寛容さは「過去1ヶ月の間でチャリティにお金を寄付したか?」という質問への回答結果と一人当たりGDPとの比較によって示される。

 さて、われわれ日本人の実感として、チャリティへの寄付が多いか少ないかは、有意義な人生と関係があるだろうか。たしかに他者のために貢献する社会は、高い幸福度と結びつくように思われる。しかしながら、ここでいうチャリティはキリスト教の教えに基づくものであり、罪の思想や労働観とも関係している。われわれの感覚における慈悲や他者への親切といったものとは感覚的な隔たりがあり、単純に比較することはできない。

 また、キリスト教国においては、幼少の頃から神の前における個人の意識づけが行われる。それに対して日本では、集団が個人のアイデンティティに関係するのが伝統的である。それゆえ日本の組織や共同体は、集団に個を埋没させることを求めるし、個人の側もそれをよしとする人が少なくない。昨今の若者は、就職活動などで欧米のように個人の自覚や主体的選択を求められるから、伝統的な意識とは乖離がみられる。そのため、年配の人に聞けば自由度に満足と答えるだろうし、若者に聞けば不満足と答える度合いが上がるだろう。

 さらに言えば、日本は明治以降、欧米的な価値観と伝統的な日本の価値観を混在させながら発展してきた国である。よって例えば、タテマエとしては欧米的な自由な気風を尊重していると言いながら、ホンネや実際においては集団の秩序のほうを優先するところがある。中根千枝が『タテ社会の人間関係』で述べるように、飲み会の最中、ウチは欧米的な能力主義だと言いながら、年功的上下関係による席順が厳格に守られているのが、日本の現状である。

 しかも日本人は、その集団主義のゆえに、物事をはっきりと言わない民族である。アンケートでイエスかノーかを問われれば、「どちらとも言えない」と答える人が大半だろう。そういう日本人に人生の幸福度合いを質問すれば、多くの人は普通か少しいいくらいと答えてしまう。事実、日本人の平均値は 5.886 である。しかるに、人と比べてどうだろうと考える姿勢が定着している日本人においては、平均的であることはよいことなのである。

幸福かどうかは自分次第

 国連の画一的な指標によって、日本人の幸福感、人生の充足度を測ることは、どだい無理というものだ。とはいえ、調査における「キャントリルの梯子の質問」は、日本人に対しても有効である。他国と比較できるからではなく、自分の人生は自分で決められるという意識をもつことができるからである。

 「自分にとって最良の人生」とは、いかなるものか。ある人は、生まれ育った地域社会に生きることだと言うかもしれない。またある人は、大企業に入って大きな仕事をすることだと言うだろう。よし悪しはともかく、お金を稼ぐことが一番だと考える人もいるし、宗教的生き方をしたいと思う人もいる。いずれも、その人にとっては最良の人生である。

 哲学者マルティン・ハイデガーは、個々の人間は、いまここにある固有の状況の中に投げ込まれていることを強調して述べた。周囲との関係のなかで自らを自覚し、同時にその関係のなかでのよきあり方を模索するのが、人間である。また人間は、自分と真剣に向き合うときには、必然的に自らの人生の終わり、すなわち死を意識せざるを得ない。必ず訪れる生命の終わりをふまえ、過去から与えられた自分の条件を引き受けながら、いまを有意義に生きるのが人間というものである。

 快楽におぼれたり、退廃的な生き方をしている限り、本当に有意義な人生を送ることはできない。人生とは、人間的な生き方をまっとうすることであり、それはすなわち、自らの選んだ道を終わりに向かって進んでいくことだ。それは、集団主義とか個人主義といった二者択一で語ることはできないし、ましてやGDPや寄付金の多さなどで決まるものでもない。いまの自分と真剣に向き合い、自分らしい人生を見定めることが、最良の人生を送るための出発地であろう。

皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。複数の団体の理事や役員等を務めつつ、実践的な経営手法の開発に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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