【豊臣秀頼】は秀吉との親子否定説や生存説など何かと話題の尽きない人物だった!?
豊臣秀頼は秀吉と側室の淀殿(茶々)との子として生まれ、江戸幕府設立後に徳川家康と大坂の陣で対決することになります。
なにかと豊臣秀頼と淀殿とセットで書かれることが多いので、私はマザコンのイメージを強く持っていましたが、実際には中々の好青年であったそうです。
秀吉に溺愛されて過保護に育てられてはいると思いますが、幼い頃から教育ママの下で帝王学を学び頭脳明晰で人望も厚かったとも言われています。
今回はそんな豊臣家のプリンス・秀頼について迫っていきます。
二条城会見で秀頼に天下人の資質が?
1611年の二条城会見では【風貌が良くない小柄な猿と呼ばれる秀吉の子】のイメージとは違い、期待を裏切る大きな体の青年で、一説には秀頼の身長は六尺(約180cm)を超えていたと言います。
会見で秀頼は年長者であり大舅である家康を上座を譲るなどの気遣い(立場をわきまえたのか?)を示しています。多少のトラブルはあったものの、秀頼は動じる事なく見事な立ち振る舞いを見せました。
その立ち振る舞いに家康も【天下人だけが自然と身にまとえるものを秀頼が持っていた】と資質を認めたそうです。
豊臣家は西国では慕われていた!?
会見が無事終わると大坂や京・堺を中心とした畿内の人々は、天下泰平を祝ったと言います。この様子から西国の大名や民衆たちは豊臣秀頼をかなり慕っていたように思います。
実際に徳川の天下にあっても豊臣人気は畿内を中心に絶大で、幕府は後に燃え残った大坂城の石垣を土で覆って、豊臣時代の痕跡を地上から消してから大坂城を再建しているほどでした。
会見で立派に成長した秀頼を目の当たりにし、西国の秀頼人気を感じた家康はこのまま豊臣家を存続させてはいけないと痛感したのでしょう。会見後に家康は、西国の諸大名たちに将軍に忠誠を誓う起請文を取り付けています。
秀頼の心のうちはわかりませんが、本人にその気がなくても周囲がそれを許さず、持ち上げるだけのカリスマ性がありました。豊臣秀頼は徳川家にとって大きな脅威に違いなかったのです。
そして『方広寺鐘銘事件』からの『大坂の陣』へ向けて動き出します。
豊臣秀頼の父親は本当に秀吉か?
江戸時代の書物『明良洪範』に、豊臣秀頼の身長が6尺5寸(197cm)・体重43貫(161kg)と書かれており、取り上げられることが多いです。上記が本当なら、お相撲さんみたいな体格をしていたことになりますね。
別の史料には身長180cm・体重80kgのがっちり体系とも書かれ、ほかにも161cmくらいだったと史料によってばらつきもあります。
当時の男性の平均身長が155cmと考えると180オーバーの秀頼はかなりの大男です。
一方で秀吉は、平均身長より低く『小柄な武将』の部類に入るくらいだったので【秀頼は秀吉の子ではない】と疑われている要因となっています。
また、秀吉は多くの側室がいたのにもかかわらず、子どもは淀殿との間にしか生まれなかった事で『どうして淀殿だけ二人も子供が生まれたのか?』と疑問視されています。
明良洪範にも秀吉の実子ではなく、大野修理(淀殿の側近)と浮気をして捨と秀頼が産まれたと書かれています。
しかし、秀吉は長浜城主時代に6歳で早世した側室・南殿との間に子供がいました。この話が事実なら秀吉は淀殿以外にも子供が出来たことになります。
また、淀殿の父・浅井長政は長身180cmあったと言われており、淀殿本人も168cmだったと言われ、血筋を考えると秀頼が長身でも不思議はありません。
豊臣秀頼の生存説
1615年の大坂夏の陣で淀殿と共に大阪城で自害したとされる豊臣秀頼は、生存説もささやかれています。
大阪城が落城したのちに京都では『花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ』のような童謡が流行ったそうです。
この歌からは秀頼だけではなく真田幸村も生き延びている事が分かりますね。
歴史上、生存確認が不明なカリスマたちは、簡単に死なせずに人々によって伝説となる事があります。有名人では源義経が大陸から逃れてチンギス=ハンとなったとされ、孫のフビライ=ハンが日本に攻め込んだのも祖父の敵討ちだと言われているそうです。
秀頼も本人の遺体が確認できていないことから秀頼生存説があります。そのうえ、鹿児島には秀頼のものと思われる墓も残されており、これが秀頼生存説の基となっています。
また、九州で島原の乱を主導した天草四郎が秀頼の子どもではないかと言う伝説も残っています。彼の馬印が千成瓢箪(せんなりひょうたん)で、薩摩の書物に天草四郎を豊臣秀綱と表記しているものがある事からこのような伝説がささやかれてるみたいです。
こうした伝説が残っている一方で、1980年には大阪城三之丸跡で3人の頭蓋骨が発見されました。発達状況から庶民のものではなく、高貴な人物で顎に介錯されたような傷が残っており、年齢が20代前後の男性だと鑑定の結果が出ています。
その一つが秀頼のものではないかと考えられており、その遺骨は京都の清涼寺に埋葬され、首塚が建てられています。
豊臣秀頼は歴史上重要なキーマンであるにもかかわらず、研究が進んでいないのが実情で史料の発見や研究が進むにつれて秀頼の人物像が変わってくるかもしれませんね。