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ビル・ネルソン・インタビュー【前編】/新作、坂本龍一・高橋幸宏の思い出、ビー・バップ・デラックスまで

山崎智之音楽ライター
Bill Nelson / photo by Martin Bostock

ビル・ネルソンは時間と空間、そして音楽性をも超えて活躍してきたアーティストだ。

英国ヨークシャーから1974年にロック・バンド、ビー・バップ・デラックスを率いてデビュー。バンド解散後にはソロ・アーティストに転じてイエロー・マジック・オーケストラ(以下YMO)との交流を育み、エレクトロニックなアプローチでも支持を得た。近年では英国ヨークのスタジオで活発に創作活動を行い、毎年複数枚のアルバムを発表するクリエイティヴな日常を過ごしている。

そんなビルへの前後編の全2回にわたるインタビュー。その近況と2024年5月にリリースされた最新アルバム『Powertron』、2023年に亡くなった坂本龍一・高橋幸宏両氏との思い出、ビー・バップ・デラックスでの活動、サイエンス・フィクションへの憧憬などについて語ってもらった。まずは前編を。

Bill Nelson『Powertron』ジャケット(Sonoluxe / 現在発売中)
Bill Nelson『Powertron』ジャケット(Sonoluxe / 現在発売中)

<毎日ホーム・スタジオでレコーディングしている>

●1996年、チャンネル・ライト・ヴェッセルでの来日ライヴは素晴らしく、バンドが長く続かなかったのが残念でした。あなた自身も「ソングライティングからいったん離れて、バンドのギタリストであることを楽しんでいる」と話していましたが、何故活動を終了したのですか?

チャンネル・ライト・ヴェッセルは最初からパーマネントなバンドになる予定ではなかったんだ。元々はロジャー・イーノの構想によるプロジェクトで、それにケイト・セント・ジョンや私が加わった形だったけど、全員が他のキャリアも続けていたし、それが忙しくなったんだよ。とても楽しかったし、やって良かったね。2枚のアルバムはスタジオで曲を書いて、インプロヴィゼーションも交えながらレコーディングしたんだ。ただ私はギタリストであるのと同時にシンガーでソングライター、プロデューサーでもあるから、いずれソロ・キャリアに戻ることは判っていた。

●コンスタントに毎年数枚のアルバムを発表していますが、最近の体調はいかがでしょうか?あなたの公式サイトの日記(journal)に病気や怪我のことが書いてあったり、ファンは心配しています。

2015年に糖尿病と診断されたんだ。それから視力が著しく落ちてきて、ライヴから撤退することにした。年齢のせいもあるんだろうけど(注:1948年生まれの75歳)視力の問題で自動車の運転も出来ないし、免許証も返納したよ。どこかに行くときはうちの奥さんに運転してもらわなければならない。日常の生活ではそれほど苦労はしないけどね。ただ、音楽を止めるつもりはない。まだ言いたいこと、言うべきことがあるし、毎日ホーム・スタジオでレコーディングしているよ。数年前に曲を書いてこれからミックスするものも山ほどあるし、あと数年はアルバムを出し続けることになる。サイトの日記をあまり更新しないのは、日常生活でさほどエキサイティングな出来事がないからだよ。それに視力が悪くて、パソコンのキーボードを打つのに時間がかかってね。だからたまに更新すると「転倒して顔面を怪我した」とか、悪い出来事になってしまうんだ。

●アルバム『Powertron』は『The Jewel』(2020)と同じレコーディング・セッション、『All The Fun Of The Fair』(2023)は『Marvelous Realms』(2023)と同じセッションで録った音源だそうですが、複数アルバムを同時に制作することはよくありますか?『Crimsworth』(1995)と『Practically Wired』(1995)も同時期にレコーディングしたそうですね。

それは正しくもあり、間違いでもある。私はいつもレコーディングしているから、“アルバムのためのレコーディング・セッション”というものは存在しないんだ。「さあ、アルバムを作るぞ」と考えて曲を書くわけではなく、書き溜めた曲を聴き返して、流れやテーマに沿った形でアルバムにしていく。アルバムは結果・産物なんだよ。

●『Powertron』と『The Jewel』は共に2016年にレコーディング、『The Jewel』のみが2020年にリリースされましたが、時期にズレがあったのに理由はありますか?

『The Jewel』はインストゥルメンタルで、いわゆるロックとは異なる独特な雰囲気がある曲が集まって、比較的スムーズにアルバムの形に仕上がったんだ。『Powertron』はその後に着手したから少し時間がかかった。自分の創造性には波があるんだ。アンビエントなアルバムを作ると、次はストレートなロック・アルバムを作って、さらにクラシック的なアルバムを作ったりね。そうすることで自分自身に刺激を与えたいんだよ。

●2016年と2024年では、あなたの音楽性はどのように変化しましたか?

作曲やソングライティングの作業はほぼ同じだけど、より良い音楽を書けるようになったと考えたいね。変化があったとすれば、テクノロジーの面だな。コンピュータのソフトウェアを多用するようになったことかな。以前はよりハードウェア主体だったけど、Cubaseを使っているし、サンプルやループを使うことで、音楽に自由度が増したことは確かだ。それでもメロディやサウンドに対するアプローチは同じだし、音楽そのものの変化は、リスナーのみんなが判断してくれれば良いと思う。

●『Powertron』の「Loose Chippings」や「Fair Winds And Steam Machines」にはキャッチーなメロディとフックがあって、ヒット・チャートに入ってもおかしくない曲ですね。

うん、まあ、ヒップホップやダンス・ミュージックでもないし、現代のチャートではヒットしそうもないけどね(苦笑)。

Bill Nelson / photo by Martin Bostock
Bill Nelson / photo by Martin Bostock

<YMOは1人1人が独立したアーティストだった>

●2023年には高橋幸宏(1月11日没)と坂本龍一(同年3月28日没)が相次いで亡くなりました。

彼らがいなくなって、とても悲しいよ。ここ最近会う機会がなかったけど、彼らは良い友人だったし、YMOとの交流は自分の人生においてかけがえのないものだった。

●YMOとどのように出会ったのか教えて下さい。

土屋昌巳の『RICE MUSIC』(1982)のレコーディング・セッションに誘われたんだ。インスピレーションが豊かな経験で、もっと日本のミュージシャンと一緒にやってみたかった。それで高橋幸宏の『WHAT, ME WORRY? ボク、大丈夫!!』でも一緒にやることになった。それで私の『Chimera』(1983)にもミック・カーンと参加してもらった。YMOのレコーディングのために東京に行ったんだ。それが初めての日本の経験だった。モダンな要素と伝統的な文化が共存する、まさにYMOの音楽のような場所だと思ったね。それが『Naughty Boys』(『浮気なぼくら』<1983>)だった。東京のスタジオでレコーディングを始めたけど、YMOの3人が同時に集まることは滅多になく、私もそれぞれ1人ずつと作業することが多かった。決して不仲だったわけではなく、1人1人が独立したアーティストだったんだ。坂本龍一が映画『戦場のメリークリスマス』(1983)のロケから帰国して、休む間もなくレコーディングに来たのを覚えているよ。ユキ(=高橋幸宏)とは数枚のアルバムで共演して、一緒にツアーもやったし(1983年)、何よりも友達として親しくなった。

●1980年代前半のあなたの作品にはエレクトロニックな要素がしばしば聴かれますが、YMOと出会わずともそんな方向に進んでいたでしょうか?

うん、YMOからはいろいろな触発を受けたけど、その前からずっとエレクトロニックな音楽には興味を持ってきたんだ。クラフトワークは初期から聴いていたし、ジョン・ケイジとか、テープ・ループやオシレーターなどを使ったアヴァンギャルドや実験音楽もずっと意識していた。ビー・バップ・デラックスの最後のアルバム『プラスチック幻想 Drastic Plastic』(1978)でもシンセを使っていたし、レッド・ノイズの『触れないで! 僕はエレクトリック Sound On Sound』(1979)にもそんな要素がある。さらにプロデューサーとしてもスキッズのアルバム『デイズ・イン・ヨーロッパ』(1979)でシンセを導入した。スキッズはデビュー当時はパンク・バンドだったけど、急速にニュー・ウェイヴやポスト・パンク的な方向に向かっていったんだ。

●スキッズに在籍したラスティ・イーガンは1970年代末〜1980年代初頭のニュー・ロマンティクス・ムーヴメントの仕掛人の1人となりましたが、あなたはニュー・ロマンティクスと接点がありましたか?

ゲイリー・ニューマンは私のギターのサウンドが好きで『ウォーリアズ』(1983)のプロデューサーとして声をかけてきたんだ。彼がニュー・ロマンティクスに当てはまるかは知らないけど、プロデューサーあるいはセッション・プレイヤーとしてシーンと関わっていた。ただ、ラスティが始めた“ブリッツ”クラブは私より若いキッズ向けだった。彼らが崇拝していたデヴィッド・ボウイやロキシー・ミュージックはビー・バップ・デラックスとほぼ同世代だったからね。

●あなたはデヴィッド・シルヴィアンやミック・カーンなど、ジャパンのメンバー達とも交流がありましたが、どんな接点があったのですか?

私がジャパンのアルバムをプロデュースするという話があったんだ。結局スケジュールの問題か何かで実現しなかったけど、後に『錻力の太鼓』(1981)となったアルバムだよ。それとジャパンが解散してから、デヴィッド・シルヴィアンの『ゴーン・トゥ・アース』(1986)をプロデュースする話もあった。ジャパンはYMOとも親交が深かったし、当時はそんなミュージシャン達の交流があって、お互いの作品に参加しあっていたんだ。ジャパンは誰とも異なった音楽性を持っていた。とても好きだったよ。

●高橋幸宏の『WHAT, ME WORRY? ボク、大丈夫!!』にはザイン・グリフも参加していましたが、彼と面識はありましたか?

インタビューはこちら

いや、彼と直接は会ったことがないと思うし、彼の音楽を聴く機会に恵まれてこなかったんだ。機会があったらぜひ聴いてみるよ。

●あなたは日本と密接な関係を築いてきましたね。

うん、日本は大好きだよ。うちの奥さんが日本人なんだ。YMOやユキと一緒にやったし、ハロルド・バッドと日本をツアーしたこともある(1992年)。1996年のチャンネル・ライト・ヴェッセルの日本公演の後、しばらく日本に滞在したんだ。確かビザが6ヶ月有効だったからその後バリ島でバカンスを取って、また日本に戻って6ヶ月過ごした。主にセッション・ワークをしていたけど、誰もが敬意を持って接してくれて、素晴らしい経験だったよ。それからイギリスの田舎に家を買って、ずっと住んでいる。

●2003年、日本のTV番組『ポカポカ地球家族』に出演していましたが、ヨークの100年前の家に今も住んでいますか?

うん、同じ家に住んでいるよ。日本にはそれから一度、妻のお父さんが亡くなったときに行ったけど、それ以来ずっと機会がないんだ。いつかまた行けたらいいね。

後編記事ではSFや宇宙への傾倒、キング・クリムゾンやア・フロック・オブ・シーガルズとの交流、膨大な作品群からビル自身が選ぶオールタイム・ベストについてビルに訊いてみたい。

【公式ウェブサイト】
https://www.billnelson.com/

【公式Bandcamp】
https://billnelson.bandcamp.com/

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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