自殺する農協―実感的農協論
農業記者として各地の農村を歩いてほぼ60年が経ちます。行くたびに気が付くのは、農協の存在感が次第に小さくなっていることです。農協はこれまで、行政の領域を超えた大型合併を進め、経営や資金など格段に大きくなっているにも関わらず、組合員農家の農協離れが進んでいます。その分、地域への影響力も衰え、これまで農協の収益を支えてきた信用事業(預金の受け入れ貸し出し、投資など金融事業)や共済事業(生命保険・火災保険・自動車保険など保険事業)も振るわなくなっています。これでは経営は縮小する一方になってしまいます。一体なぜこんなことになってしまったのか、農協が存在感を取り戻し、農民自らが作る社会的組織として再生する道はないのか、以下、長年むらを歩き、農協ともつきあってきた記者としての実感的農協論です。
◆巨大合併と不採算部民御切捨て
敗戦直後、地主が支配する農業構造を壊し、農地改革によって生まれた自作農を軸とする農業を守り維持するためにつくられたのが農協です。村の協同組合として農業生産から共同販売、生産・生活資材の共同購入、協同組合銀行、助け合いを基礎とする共済、共同医療事業など農家の暮らし全般にわたって、小さな農民の砦の役割が期待されてきました。日本が経済成長期に入った1960年以降、規模拡大と合理化・効率化を進める外部経済の動きに合わせ農協も合併を繰り返してきました。それは現実的には小さい民の協同組織という農協の本質から離れていく道筋でもありました。
それは、行政単位を大きく超える巨大合併と不採算部門の縮小・切り捨てという形で進みました。巨大合併で地域に網の目のように張り巡らされていた支所・出張所が次々廃止されました。農業指導部門の営農セクターは金を稼がないということで縮小され、農協という農民組織の象徴だった営農指導員は、稼ぎ部門の共済にまわされ、保険の勧誘に歩かされました。支所・出張所に廃止で組合員農家と直接触れ合う場がなくなり、そこに営農部門という農協にとってなくてはならない部門が縮小されることが重なり、農協の農業離れ・農家離れが進みました。
◆縮小路線をひた走る
その極めつけが安倍政権が進めたアベノミクスでした。時の首相じきじきの指示で農協悪者論が幅を利かせました。農協があることで日本の農業がダメになり、それが足かせとなって日本経済を発展させる経済・金融の自由化の進まないという論理です。岩盤規制にドリルで穴をあける最大の対象に農協が挙げられました。その結果、何が起こったか、事例を二つ報告します。
一つは新潟・上越地方でのことです。40年代の付き合いがある農民グループを訪ね雑談をしていたら、「地元の農協が職員を半分にする方針を出した」という話が飛び出しました。「どこを減らすの?」と聞くと、もう営農部門は減らされているから、信用・共済しか残ってないよなあ」という返事でした。「そこを減らしたら収益部門がなくなってしまうじゃないの」と聞くと、「もう収益部門じゃなくなっているよ」といわれてしまいました。地方銀行も農業部門への融資に力を入れ、大きい農家は銀行との取引を増やしているし、保険も民間が進出しているというのです。
もうひとつは山形県置賜地方でぶつかったことです。ここの農協も巨大合併をした大型農協です。その農協が肥料や農薬、農作業道具、種や苗といった農業生産資材の販売をコメリに委託するというのです。コメリというのは農業生産資材を軸に全国に店舗展開しているホームセンターです。置賜の農協は管内の主要地域に営農センターを置き、相談機能を発揮しながら生産資材を組合員農家に供給してきましたが、そのセンターは次々と閉鎖されました。あとで農協の全国組織の人に聞くと、コメリと農協の提携は全国で進んでいるよ、という話でした。
農業生産資材の供給は、農協を農協たらしめている中枢部門です。現実的にも顧客である農家の情報を本来商売敵である農業資材ホームセンター渡すことは、事業体としても自殺行為ではないか、と思うのですが、どうも今の農協にはそうした話は通用しないようです。
こうして、農協は次第に滅びの道をたどりつつあります。横で見ていると、農協自らが自殺の道を歩いているとしか見えません。だけど、それでいいのか。二つの地域の事例を通して考えます。
◆小さい百姓は農協がないと困るのです
秩父にて
筆者が住んでるのは、首都圏に西に外れの山また山の山間地、埼玉県秩父です。林野率90%台だから、ろくな耕地はありません。農家はみんな兼業で、それも「年金+農業」というのが圧倒的です。年金といっても、国民年金が多いから、もらえる金はわずかで「+農業」への依存度が高い。といっても、年寄りが小さな畑をかき回しているだけですから、多品目少量生産で、細々と生産したものをおカネに換えるしかありません。そんなわけで農協の直売所へ出す人が結構います。
年寄りが「年金+アルファ」を稼ぎ、とりあえずお上の世話にならないで生きていけるのは、農協があるからだといってもよいかもしれません。農協もまた協同組合なのだ、と世間に強調しなければならないのは悔しいのですが、協同組合とは、“小さきもの”が肩を寄せ合い、高利貸しや農家に高い肥料を売りつけたりコメを買い叩いたりする強欲資本と渡り合うために自主的に作ったものです。農協の直売所はその見本だな、ということが、小さな傾斜畑(秩父では「ななめ畑」とよぶ)しかない秩父に住んでいるとよくわかります。農協がなくなっていちばん困るのは、そのななめ畑にへばりつくように生きてきた百姓なのです。弱者集団に属するものにとって、いろいろあっても農協はないと困る存在なのである。
福島にて
そのことをもっと深く感じたのは2011年の3・11大震災・核発電所爆発のあとの福島においてでした。大震災の直後から福島の村に出かけ、支援活動をしながら村を歩きました。当然いくつもの農協にも出入りし、改めて感じ入ったことがあります。農協はやはり人の組織だなあ、ということです。普段はそのことが目につかず、株式会社と同じ資本の組織、といった側面が目立っていたし、世間もそう見ていました。ところが、いざ農業も村も、自身さえ存在そのものを否定される事態に直面して、がぜん農協はその本領を発揮したのです。
いくつか例を挙げます。例えば農協共済。地震で建物や車が大きい損傷を受けました。普段なら保険金が下りるには、査定やらなにやら時間と手間がかかります。このとき福島のいくつもの農協は、自身の農協の積み立てていた内部留保金を下して、単協の判断で手早く保険金を組合員に支払いました。ある組合長に、そんなことをして全共連が出せないといったらどうするの、と聞きました。彼は、こんな時のために積み立ててきた金なのだから、この際全部使い切ると。
放射能汚染で福島の農産物は売れなくなりました。その時も、いくつかの農協は組員農家が持ち込んでくる農作物は全量引き取り、代金を仮払いしていました。
「売れないのにどうするの」
「東電に支払わせる」
「東電が払わないといったら」
「そんなことはさせない。時間はかかっても断じて払わせる」
JAたむらでは、そのための対策室をつくり、専任の職員と法律顧問をおき、原発事故で起きた組合員の損害をすべて調査し、数え挙げて東電に持ち込んだ。専任職員の人件費や法律顧問への支払いも東電に請求しました。
福島だけでなく、大震災で大損害を受けた岩手、宮城でも、各地の農協は倉庫を開き、そこの積んであったコメを地域に住民に配りました。こうした話に接すると、「やっぱり農協だなあ」と思ったものです。やはり農協は残さなければなりません。