『光る君へ』や史実でも美文字だった藤原行成は勤勉で道長の信頼も厚い人物だった
『光る君へ』では物腰が柔らかく美しい文字を書き、藤原道長の良き友人として描かれている藤原行成。一条天皇下では蔵人頭に抜てきされ、持ち前の人柄と実務能力を発揮して政権を支えました。
行成は文字の美しさから書道をたしなむ人たちにとって憧れの存在でもあり、日本の書道【和様】を完成形に導いた人物でもあります。政治面で道長の助けとなり、文化面で書道を発展させた藤原行成とは、どんな活躍をしたのでしょうか?
道長とはライバル関係になりえた家系
道長の父・兼家と行成の祖父・伊尹は兄弟関係にありました(関係図を参考)。
伊尹は円融天皇下の摂政で権力の頂点に君臨していましたがすぐに亡くなり、権力は弟である兼家と移っていきます。伊尹の息子で行成の父・義孝がいましたが、伊尹の死後わずか2年で死去したことで伊尹の家系は出世競争からはずれ、兼家一族が権力を振るいます。
花山天皇の外戚であり、行成の父が長生きであれば道長との政権争いがあったかもしれない家柄の行成。父の死後は、母方の源保光に引き取られ養育されました。とはいえ、源保光も中納言であることから平安貴族としてそれなりの地位であったと思います。
出世の転機は明子様の兄のおかげ
外祖父の威光もあり、それなりの地位だった行成でしたが、中央の役職がほぼない状態が続いていました。しかし、995年に道長の妾・明子の兄・源俊賢が蔵人頭から参議になり公卿になると後任に行成を指名。当時、行成の立場からの抜てきは異例でしたが、俊賢の推挙と日々の努力の積み重ねが周りから認められた結果と考えます。
蔵人頭とは?
ここで『光る君へ』でもよく出てくる蔵人頭がどんな職だったのかについて触れていきましょう。
蔵人頭とは天皇の秘書的な業務を行う場所・蔵人所のトップのことを指し、参議への登竜門的な役職と考えられていました。出世競争から外れた行成が蔵人頭になることは本人が一番驚いたことでしょう。
藤原道長と行成の関係
光る君へでは良き友人として描かれている二人の関係ですが史実ではどうだったのでしょうか?
道長とは蔵人頭になったころから近くなったと考えられています。
道長が娘・彰子を一条天皇の中宮とし、その子が皇太子になったのは行成の尽力がありました。その後も道長の右腕として、一条天皇下で活躍した源俊賢・藤原公任・藤原斉信とならび四納言(しなごん)と呼ばれるまでになりました。
日本独自の書道スタイルの確立
藤原行成は平安時代に活躍した書道家【三蹟(さんせき)】の一人としてレジェンドになっています。国風文化が花咲き、かな文字の普及や女流文学が発展しました。書道もこれまでの中国風から日本独自の発展を遂げた時期でもありました。
日本独自の書道スタイル【和様】を確立した一人が藤原行成。
この書を見るととても読みやすい字なのが分かると思います。
個性的な文字で有名な藤原定家の書がこちら。
文字を比べると行成の方が美しく読みやすい気がします。
これも運命のいたずらか?
1027年の初めころから体調がすぐれなく床に臥せていました。
はやく日常生活に戻るためか、お灸を受けるなどの治療を受けていたようです。しかし、治療の甲斐もなく12月4日の21時~23時頃に56歳で死去しました。
ところが運命のいたずらか、同じ日の早朝に藤原道長が死去しており、周りは大混乱で行成の死はあまり話題にならなかったそうです。
これだけの功績を残しながら、藤原道長と同じ日に死去した事で寂しい人生の終幕になった藤原行成。書道家として書く機会も多くたくさんの書を残しており、彼の日記は当時の様子を知るのに大切な一級史料だったり、白居易の『白氏文集』を書き写した『白氏詩巻』は国宝に認定されています。