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「北条義時の死因」は脚気の治療に用いた「トリカブト」の中毒だった?

石田雅彦科学ジャーナリスト
(写真:イメージマート)

 大河ドラマで描かれて注目を集めた鎌倉幕府の2代執権、北条義時だが、その死因については諸説あり、いまだに決着はついていない。当時の医薬状況や文献などを探ることで未出の仮説について考える。

脚気が死因だったのか

 北条義時(1163-1224)は、承久の乱の3年後、1224(貞応3)年6月13日、意識を失って臨終状態になったため、午前4時に落飾(仏門に入ること)し、午前10時(もしくは午前8時)に62歳で死んだ。鎌倉時代の貴族や僧侶など、上流階級の死亡年齢は平均61.4歳とされているので義時は平均的な寿命だったが(※1)、北条氏の中では長寿のほうだった。

 では、義時の死因は何だったのだろうか。鎌倉時代後期に北条氏の手が入って書かれた『吾妻鏡』によれば、長く脚気を患い、梅雨時の季節と暑気あたりが加わって病状が急に悪化した脚気が死因とされている。この記述から、北条義時の死因は長く脚気だとされてきた。

 だが、公家で歌人の藤原定家(1162-1241)の18歳から74歳までの日記『明月記』に、義時死後3年後の1227(安貞元)年6月11日の項として、承久の乱で後鳥羽上皇側についた尊長(そんちょう、?-1227)という僧侶が六波羅探題や御家人によって捕縛された際、義時は妻(伊賀の方、生没年不詳)が飲ませた薬で殺されたという意味のことを述べたとある。

 つまり『明月記』に出てくる尊長は義時が伊賀の方に毒殺されたと言ったわけだが、伊賀の方は義時の死後に実兄や三浦義村と組み、息子である北条政村(1205-1273)を執権に就かせようと画策したが失敗して流罪になっている(伊賀氏の変)。そして、この騒動に巻き込まれた一条実雅(1196-1228)は尊長と兄弟であり、尊長が裏で糸を引いて義時の毒殺に関与したのではないかという説もある(※2)。

 また、南北朝時代に書かれた『保暦間記』という資料には義時が近習に殺害されたとあるなど、承久の乱という日本史で際だってエポックメイキングな戦乱で勝利し、武家政権を確立させた義時の死因に関する説はいくつかあって現在も定まってはいない。単なる病死だったのか、それとも陰謀による他殺だったのか、どちらだったのだろうか。

脚気に苦しんだ九条兼実

 まず『吾妻鏡』が唱える脚気説だが、江戸患いと呼ばれたり旧帝国陸海軍の食事問題などから、精製した白米(精白米)を食べることによるビタミンB1(チアミン)不足が原因となるという印象が強い病気だ。鎌倉武士がそうした「贅沢病」にかかるのだろうか。

 実際、脚気は平安時代や鎌倉時代の貴族や僧侶、武士も多くかかっていた。これらの上流階級の人々は白米を食べていたが、それは完全に精白されていない玄米に近いものでビタミンB1も多く含んでいただろう。

 そのため、白米は脚気の原因にはなりにくいが、タンパク質や脂質といった栄養素を十分に摂れない粗食によって発症すると考えられる。現代でもジャンクフード一辺倒というように、食生活が偏り過ぎると脚気になることがある。

 義時とほぼ同時代に京都で摂関家として生きた公家の九条(藤原)兼実(1149-1207)も若い頃から長く脚気に苦しんだが、当時は原因がわからず治療に難儀したとその日記『玉葉』に書いている。兼実は毎年、夏になると脚気が重症化し、食欲もなくなって起き上がることも困難になった(※3)。

 このように鎌倉時代の貴族や武士でも脚気になることがあった。特に、源頼朝や北条氏は贅沢な食事を嫌い、質素が美徳であるような食生活をしていた。義時も京都の貴族の生活を嫌った頼朝の薫陶受け、武士たちに対して率先垂範する立場であったから、栄養不足、ビタミン不足から脚気を発症することは十分にあり得ただろう。

 脚気に苦しんだ九条兼実は、鍼灸で治療し、湯治へ行き、ニラなどを食べて治そうとしたが、鎌倉時代には灸療法が効果的とされていた。脚気という病名は、3世紀から4世紀に中国(晋時代)の錬金術師(煉丹師)が書いたとされる『肘後備急方』に最初に記述され、この中で灸療法の一つである隔物灸にも言及している(※4)。

トリカブトを使った隔物灸とは

 隔物灸というのは、灸をすえる部位の上にニンニク、ショウガ、塩などを置き、その上にモグサを載せることで温熱効果によって介在物の薬効成分を身体へ浸透させる方法だ。脚気の灸療法では、特に附子(ぶし)による湧泉穴(足の裏)への灸に効果があるとされていた(※5)。

 附子というのは猛毒のトリカブトのことで、弱毒化して漢方の生薬として使われることも多い。16世紀末の中国の薬学書『本草綱目』によれば、附子(烏頭)には大毒があるが、その効能として体温上昇や関節痛の除去があり、暑気あたりや下痢などにも効くとある(※6)。毒は薬にもなり薬は毒にもなるが、トリカブトも病気の治療に利用できるというわけだ。

 隔物灸が広く普及したのは鎌倉時代の後だが、灸治療はすでに宋から日本へ入ってきていた。九条兼実の『玉葉』にも、医薬に通じる僧侶(筑紫医僧)を呼んで脚気の灸治療を施させたことが記述されている。4世紀に隔物灸の療法が記述されていたのだから、鎌倉時代にも脚気の治療にトリカブトを使う同じような療法があったと考えても不自然ではない。

 ここからは空想になるが、脚気に苦しんでいた北条義時も灸治療をしていた可能性は高い。そして脚気の灸治療として、当時では先端的なトリカブトによる隔物灸をしていたかもしれない。

 まだ用法用量が確立されていない場合、あるいは伊賀の方のような素人が行った場合、トリカブト毒の経皮浸透から中毒を引き起こす危険性も捨てきれない。日常的な治療で微量のトリカブト毒を摂取し続けていれば、やがて致死量に達して急死することもあるだろう。

 この場合は毒殺ではなく意図しない不慮の事故ということになるが、義時の急な病状の悪化の理由や『吾妻鏡』の記述との整合性などから全くの暴論とはいえないだろう。トリカブトによって義時が死んだことを知っていた尊長は、その死に際にあらぬことを口走ったのかもしれない。

※1:辻善之助、「大日本年表」、大日本出版、1942

※2:山本みなみ、「北条義時の死と前後の政情」、鎌倉市教育委員会文化財調査研究紀要、第2号、2020

※3:服部敏良、「鎌倉時代医学史の研究」、吉川弘文館、1964

※4:東郷俊宏、「お灸の歴史─科学史の視点から─」、全日本鍼灸学会雑誌、第53巻、第4号、510-525、2003

※5:上田善信、「脚気に対する隔物灸」、日本医史学会雑誌、第61巻、第1号、2015

※6:西沢道允、「附子の証と温鍼術の臨床」、日本東洋医学会誌、第19巻、第1号、1968

科学ジャーナリスト

いしだまさひこ:北海道出身。法政大学経済学部卒業、横浜市立大学大学院医学研究科修士課程修了、医科学修士。近代映画社から独立後、醍醐味エンタープライズ(出版企画制作)設立。紙媒体の商業誌編集長などを経験。日本医学ジャーナリスト協会会員。水中遺物探索学会主宰。サイエンス系の単著に『恐竜大接近』(監修:小畠郁生)『遺伝子・ゲノム最前線』(監修:和田昭允)『ロボット・テクノロジーよ、日本を救え』など、人文系単著に『季節の実用語』『沈船「お宝」伝説』『おんな城主 井伊直虎』など、出版プロデュースに『料理の鉄人』『お化け屋敷で科学する!』『新型タバコの本当のリスク』(著者:田淵貴大)などがある。

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