さんざん人を虫けらのように殺した挙句、自害を申し付けられた2人の戦国武将とは?
戦国武将は気性が荒かったに違いないが、あまりやり過ぎると問題である。さんざん人を虫けらのように殺した挙句、自害を申し付けられた2人の戦国武将がいたので、取り上げることにしよう。
松平信康は徳川家康の子として、永禄2年(1559)に誕生した。母は、築山殿である。のちに家康が浜松城(静岡県浜松市)に移ると、嫡男だった信康は、岡崎城(愛知県岡崎市)を任された。
ところが、信康は家康の期待に応えることができなかった。一説によると、信康は日常的に乱暴な振る舞いが多く、気性が非常に荒かったという。それらの逸話は、『松平記』、『三河後風土記』などに書かれている。
あるとき、信康は狩りの際に僧侶に出会った。狩りで僧に出会うと、獲物があまり取れなくなるという考えがあったので、信康は非常に腹を立てて僧侶を殺害したという。あるいは、盆踊りで踊りのうまくない領民を殺し、「敵の間者(スパイ)だった」と強弁した。
また、信康は妻の五徳(織田信長の娘)との折り合いが悪かったという。結局、信康は天正7年(1579)に武田氏への内通を疑われ、家康から自害を命じられたのである。
豊臣秀次は豊臣秀吉の養子であり、永禄11年(1568)に誕生した。秀吉には実子がいなかったので、有力な家督後継者候補と目されていた。秀次が秀吉から関白の座を譲られたのは、天正19年(1591)12月のことである。
とはいえ一説によると、秀次も非常に性格が荒かったという。秀次は能役者を木刀ではなく、白刃で試し斬りをしたという。むろん重傷どころか、落命する者もいたのだから酷い話である(『続本朝通鑑』)。
あるいは、外に出掛けて鉄砲で農民を撃ったり、弓で射たり、試し斬りをしたりしたという。ほかにも秀次の残虐な行為が多々あったので、「せつせう(殺生)関白」と称されたのである(『大かうさまくんきのうち』)。秀次は文禄4年(1595)7月に秀吉から自害を命じられた。
◎まとめ
信康と秀次の悪行・乱行は、後世の編纂物(二次史料)に書かれており、一次史料(同時代の書状)では裏付けが困難なものが多い。後世になって、2人が自害を命じられたことを正当化するために創作されたのか、今後さらに検討が必要だろう。