こうちゃんのいないクリスマス… 我が子失い、自身も重傷負った両親が「正面衝突」の瞬間動画公開
まずは、以下の動画をご覧ください。
親子4人が乗る車のドライブレコーダーに記録されていた映像と、この直前に撮影された、お子さんの1歳の誕生日の姿です。
突然、中央線を突破し、完全な逆走状態で激突してきた加害車(トヨタ・クラウンクロスオーバー、R4年式)。このとき、いったい相手のドライバーは、何をし、どこを見ていたのか?
そして、この一瞬を境に、何の落ち度もない幸せな家族が、どれほどの苦しみを強いられることになったか……。
命を奪われた男の子が家族と過ごすはずだった2度目のクリスマス、両親は自分たちが遭遇した受け入れ難いこの出来事を、世の中に広く問いかけることを決意されたのです。
■「はみ出し」なんかじゃない、「突撃」してきたのです
そのメールが私のもとに届いたのは、2024年12月8日のことでした。
今年9月21日、高知県の自動車専用道路で、対向車が車線を急激にはみ出してきて、正面衝突され、後部座席でチャイルドシートに座っていた1歳1カ月の子供を殺されました。
自動車運転過失傷害の容疑で逮捕された加害者は「事故原因は覚えていない」と話をしているそうですが、警察から聞いた話によると、自動運転(レーダークルーズコントロールのことか?)で車を走行させている途中、靴を履き替えていたか、服を着替えていた可能性が高いとのこと。つまり、前を見ずに運転していたらしいのです。
これが事実なら、うっかりの「過失」とされてしまう法律が憎いです。自動運転の機能がついているからと言って、許される行為でしょうか。
また、この道にせめて正面衝突防止用のワイヤーロープなどが設置されていれば、息子は死なずに済んだかもしれない…。
私は息子の死を無駄にしたくはありません。世論に訴え、こんな理不尽な事故を減らしたいです。
もし、目に止まったならば、お力お貸しいただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。読んでいただき、ありがとうございました。
差出人は、大阪府の神農彩乃(かみのあやの)さん(38)。事故からまだ2カ月半と日が浅い中、幼いお子さんを亡くされ、どんな思いでこのメールを送ってこられたのかと思うと、胸が詰まりました。
すぐにニュース検索をしたところ、事故直後に本件を報じたいくつかの記事が出てきました。
高知の高速道で車正面衝突、大阪の1歳男児死亡 両親重傷 - 産経ニュース
高知東部自動車といえば、中央分離帯が設置されていない対面通行の自動車専用道路で、運転者としては、対向車とのすれ違いにかなりの緊張を強いられる道です。にもかかわらず、なぜ運転中に「靴を履き替えていた」とか「服を着替えていた」という話が飛び出すのか、にわかに信じられませんでした。
私はすぐに彩乃さんに返信をし、電話でお話を伺うことになりました。
実はこのとき、彼女はまだ入院中でした。そんな状態にありながら、一刻も早くこの出来事について世の中に訴えたいという強い思いが伝わってきました。
助手席に乗っていた彩乃さんは、あの日、大破した車の中で何を思い、何を見たのでしょうか。託された手記を紹介します。
<煌瑛(こうえい)ちゃんの母・彩乃さんの手記>
■楽しい家族ドライブの帰路の途中で……
9月20日の夜、私たち家族はマイカー(トヨタ・エスクァイヤ)に乗って、主人の仕事で高知に入りました。事故当日である21日の昼前に、高知市内の「ひろめ市場」に寄って昼食をとり、その後、安芸郡田野町にある神社に寄ってから大阪の自宅に戻る予定で、高知東部自動車道の下り車線を走行していました。
午後0時48分、そのとき、6歳の娘と1歳の息子は後部座席で眠っていました。娘はジュニアシート、息子はチャイルドシートを装着していました。
その瞬間の記憶は、対向車(クラウンクロスオーバー)が「はみ出して来た」ではなく、「突撃して来た」と表現しても間違いではないほどの急ハンドルでした。避けることは不可能。 もし避けられたとしても、逃げ場がない現場でした。
衝突直後、車からはたくさんの色んな音が鳴っていました。娘は「痛い、ママー!」と泣き叫んでいましたが、息子の声は聞こえません。主人は後部座席の子供たちに、必死で「大丈夫か!」と声をかけ続けていました。私は身体が痛くてどうしても動くことができず、後ろを見ることができなかったのですが、「大丈夫? こうちゃんは?」と何度も叫んでいました。でも、そこで一度、意識が飛んでしまいました。
■「こうえいが、息をしていない!」
しばらくして「こうえい!」と叫ぶ主人の声で目が覚めました。私はなおも動けないまま、「こうちゃん、どうしたの!」と何度も主人に聞きました。主人は、「こうえいが息をしていない! こうえい、戻ってこい! 戻ってこい!」と何度も叫んでいました。
助けてくれていた方が、 「あぁ、もう青くなってきている」と言っているのが聞こえたので、私も、「こうちゃん、行かないで、戻って来て!」と何度も叫びました。
娘はどこにいるのかと聞いたら「今、誰かが助けてくれたから大丈夫だ」と主人が言ってくれました。そのとき、誰かがどこかで、 「お母さんのことも助けてあげてよ!」と叫んでいるのが聞こえました。
何度も息子の名前を呼んでいる間に、また意識が飛びました。気づいたときには大破した車の助手席から運び出されて、救急車に乗るところでした。救急隊員さんに子供たちのことを聞くと、主人と一緒に、先にヘリで病院に行ったと言われました。
私のそばには女性のドクターがいて、救急隊員さんと一緒にずっと声をかけてくれました。 病院について検査をした結果、小腸が損傷していることがわかり、気がついたら緊急手術が終わっていました。子供たちと主人のことが心配で、何度も大丈夫かと質問しましたが、 別の病院にいると説明されました。
その夜、何度も息子が元気でいる夢を見ました。でも、目覚めるとダメだったのでは……、と不安になり、 病院の方々に何度も子供たちはどうなったかと聞き続けました。
翌日の昼過ぎ、栃木から私の母と妹が駆け付けて来てくれました。その後、主人と子供たちのいる高知医療センターに転院しました。
■転院先で告げられた我が子の死
そこには、主人、娘、義両親がいました。みんな泣いていました。
娘が私の横に立って顔を見せてくれました。「大丈夫? 痛いところはない?」と聞くと、娘はポロポロと涙を流していました。
そして、主人から「煌瑛だけダメだった……」と告げられました。自分の口から私に伝えたいからと、 最初の病院の方に伝えないでほしいと言っていたそうです。『ああ、だから教えてくれなかったのか』と思いました。
「こうちゃんはどこにいるの」と聞いたら、「今連れて来てくれる」と言われ、冷たくなったこうちゃんに会いました。でも、私は身体を動かすことができず、抱っこすることができなかったので、隣に寝かせてもらい、日頃から眠るときによくしていた腕枕をさせてもらいました。
あんなに可愛くて、ニコニコしていたこうちゃんは、まるで眠っているようでした。頭をなでても、手を握っても冷たく、動かない我が子を隣に、ずっと泣いていました。
主人が、「自分のせいで、本当に申し訳ない……」と泣きました。私は主人が泣いているのをこれまで見たことがありませんでした。衝突の瞬間が何度もフラッシュバックしていたので、主人には「あれは誰も避けられない。誰も悪くない」と言いました。そして、このとき初めて、息子は殺されたのだと理解しました。
事故から9日目、9月30日に高知県の斎場でお葬式(お別れ会)をすることが決まりました。私は緊急の開腹手術で縦20センチ以上の傷があり、首と背骨と腰骨、 鎖骨が折れてHCU(高度治療室)に入院していたので、お別れ会に出られないかもしれないという問題が浮上していました。でも、「こうちゃんを最後にちゃんと抱いてやりたい」と病院に伝えたところ、「じゃあ、なんとか車椅子に座れるようにしましょうね」と、いろいろと考えてくださいました。
コルセットが出来がり、お別れ会2日前の9月28日に、初めて車椅子に座りました。ベッドから降りたとき目がぐるぐる回り、過呼吸のようになりましたが、なんとか座れたのでみんな喜んでくれました。
■9日目の葬儀で、最後の抱っこ
当日はドクターが付き添ってくださり、リクライニングできる車椅子でほぼ寝た状態でしたが、斎場でこうちゃんを抱くことができました。
こうちゃんは眠っているように可愛い顔をしていました。 義両親が可愛いクマの描いてある服を買ってきてくれて、それを着ていました。
自宅が遠いので、棺に入れてあげたいものが手元になく、慕っている方が大阪から飛んできてくださり、「棺に入れてあげてね」とおもちゃをくださったので、入れてあげることが出来ました。
唯一、高知へ持ってきていたのは、1歳の誕生日プレゼントにと私の母がくれたコンバースの靴でした。まだヨチヨチ歩きでしたが、高知に行ったら履かせようと思っていたんです。でも結局、その靴で歩くことは一度もないまま、こうちゃんは逝ってしまいました。棺にはその靴も一緒に入れてあげました。
火葬の前に、主人と私、義両親、私の母が最後の抱っこをしました。斎場の男性に「この重さ、ちゃんと刻みましたか……」と目を見て言われました。 私は一生忘れることはないと涙しました。
火葬のときのことは、一生忘れません。絶望しかありませんでした。
その後、一般病棟に移ることが出来ました。主人も利き手と右鎖骨を骨折しており、手術が行われ、同じ高知医療センターに入院していたので、やっと毎日面会できるようになりました。
娘の身体にはシートベルトの跡がかなりくっきり残っていましたが、奇跡的に大きなケガはありませんでした。もし、軽自動車だったら、一家全員、命はなかったかもしれません。娘が助かったことは、本当に感謝しかありませんでした。
娘は先に退院できたので、主人の実家の滋賀に行くことになりました。私は毎日、早く大阪に帰りたいと思っていました。でも、病院の方々にはよくしていただき、本当に感謝しています。
大阪の病院への転院が決まったのは、10月8日頃でした。14日に退院し、15日には転院になるので、警察の方が調書をとりに病院まで来てくれました。調書には「息子は殺された。危うく一家全員殺されるところだった。息子を返してほしい」と書いてもらいました。
加害者が日常的に自動運転モードにし、運転中に着替えなどをしているということを聞いたのはこのときでした。
同じ日、検事さんも会いに来てくれました。車の解析に時間がかかること、しっかり捜査して、言い逃れなんかさせないと言ってくださいました。
その日は悔しくてずっと泣いていました。
■自動運転なら前を見なくてもよいのか……
彩乃さんは手術後、傷が悪化し、11月11日に再入院して全身麻酔で手術を受けることになりました。壊死した部分が予想より酷く、深いところだったため、傷を開放したまま過ごしたそうです。
退院できたのは12月11日。その後も週3回の通院とリハビリと心療内科での治療を継続しています。
9月21日のあの日から3カ月が過ぎ、明日はクリスマスイブです。あの事故さえなければ、家族4人で楽しい時間を過ごしていたことでしょう。
なぜ、煌瑛ちゃんは2度目のクリスマスを迎えることができなかったのでしょうか……。
母・彩乃さんの手記に続き、追って、事故の瞬間、ハンドルを握っていた父親の神農諭哉(かみのゆうさい)さんの手記もお伝えしたいと思います。
なぜ、この事故は起こったのか、対面通行の自動車専用道路の安全対策はこのままでよいのか、そもそも、自動運転とは何のためにあるのか……。
そんな数々の疑問を、ぜひ、一緒に考えていただければと思います。