寺田虎彦忌「天災は忘れた頃にやってくる」から「忘れる前にやってくる」
寅彦忌
伝説の警告「天災は忘れた頃にやって来る」を言い出したといわれるのが、物理学者で随筆家の寺田寅彦です。
その寺田寅彦が亡くなったのは、昭和10年(1935年)12月31日です。
このため、12月31日は寅彦忌、あるいは、ペンネームの吉村冬彦から冬彦忌と呼ばれます。
夏目漱石の「我輩は猫である」は、漱石自身がモデルの中学教師の珍野苦紗弥宅で飼われている猫の目を通しての人間社会の描写ですが、登場する元教え子の理学士・水島寒月のモデルが寺田寅彦(漱石の元教え子)です。
「天災は忘れた頃にやって来る」は、寺田寅彦の著書の中にはその文言はありませんが、これに相当する発言が色々と残されています。
例えば、寺田寅彦の亡くなる1年前の昭和9年(1934年)は災害が相次いでいます(表)。
寺田寅彦は、函館大火の翌々月の中央公論に「函館の大火について」という文章を書いています。
この中で、日本人の科学に対する態度が、「一方において科学の効果がむしろ滑稽なる程度にまで買いかぶられているかと思うと、一方ではまた了解できないほどに科学の能力が見くびられているのである」と指摘しています。
また、「災害を避けるためのあらゆる方法施設は、科学的研究にその基礎をおかなければならないという根本の第一義を忘却しないようにすることがいちばん肝要」と主張しています。
この年の11月に寺田寅彦が書いた「天災と国防」には、防災対策が進まない原因は、希にしか起こらないので、人間が忘れたころに次の災害がおきるという意味のことを書いています。
科学的国防軍創設
寺田寅彦が、生前の日本帝国陸軍と海軍が絶大なる力を持っていた時代に主張していたことがあります。
それは、防災のためには軍隊のような組織を作り、日々防災のための研究を続け、災害出動の訓練を行って災害に備えるという考えです。
昭和9年(1934年)の11月に書いた「天災と国防」には、防災のための具体的な施策として科学的国防軍創設の提案があります。
防災のためには軍隊のような組織を作り、日々防災のための研究を続け、災害出動の訓練を行って災害に備えるという考え方は、現在の防衛省や消防庁などの業務の中で実現しています。
年末年始で多くの人が休んでいます。しかし、防衛省や消防庁、気象庁や海上保安庁、地方自治体などの防災担当者は休みなく活動しています。
年末年始も休みなく備えている人々によって、私たちは災害から守られているのです。
寺田寅彦が「天災は忘れたころにやってくる」といったとされるのは昭和初期のことです。
しかし、近年は、天災に人災が加わった災害が相次いでいます。
寺田寅彦であったら、「災害は忘れる前にやってくる」といったかもしれません。
表の出典:筆者作成。