秀岳館高校・吹奏楽部の“美談”と、その報道を読み解く──夏の甲子園「自己犠牲」報道が巻き起こす波紋
きっかけは西日本新聞
準々決勝が終わり、ベスト4が出揃った高校野球・夏の甲子園大会。そこでまたひとつの騒動が起きています。ベスト4に進出した熊本県代表・秀岳館高校の吹奏楽部が、九州のコンクールをキャンセルして甲子園での応援を優先したことが、強く問題視されたのです。
このニュースは8月18日に当事者への取材記事が複数発表され、さらなる混迷を見せつつあります。なぜなら、学校側と生徒側でこの件についての見解が少し異なるからです。
ここからは、3つの報道を比べてその違いを確認していきましょう。
ことの発端は、8月16日夜に配信された西日本新聞の記事でした。
この記事は、吹奏楽部の決断を問題視するものではありません。最後は、部員が甲子園で爽やかに応援を打ち込む姿が描かれており、彼女たちが大会を諦めたことが「美談」とされているように読めます。しかし、それに大きな疑問が投げかけられたのです。
生徒たちの自主判断?
秀岳館高校・吹奏楽部の一件は、西日本新聞の報道以降、Twitterなどで卒業生や現役部員と思しきひとから賛否の声があがり、話が膨らんでいきました。
こうした騒ぎを受けて、複数のメディアが取材に動きました。ひとつが、『J-CASTニュース』。もうひとつが、『BuzzFeed Japan』です。両者とも18日の19時台に記事を発表し、時間差は17分しかありません。ほぼ同じタイミングなので、後者が前者の取材を受けてさらなる取材をしたということではないでしょう。
しかし、その内容は微妙に異なるものでした。両メディアは、異なる立場の関係者に取材し、しかも事実関係が一部違ってもいます。ここからは、それぞれの報道を細かく確認していきましょう。
まず、気になるのは吹奏楽部が、吹奏楽コンテストの南九州大会よりも甲子園の応援を優先した理由です。それは、『BuzzFeed Japan』による現役1年生女子部員への取材で確認されています。
ということは、冒頭で引用した西日本新聞の記事が正確だったということです。つまり、「『コンテストに出たい』と涙を流す部員もいた」が、「『野球部と一緒に演奏で日本一になります』」と部長は決断したわけです。生徒たちはコンクールに未練がありながらも、自主的に甲子園での応援を選んだと読めます。
また顧問教師に取材した『J-CASTニュース』の記事でも、西日本新聞と似たような説明がされています。
これだけ読むと、生徒は「自然に」自主的な判断をしたということになります。
しかし、そうなるとこの問題の発端ともなった西日本新聞の「『コンテストに出たい』と涙を流す部員もいた」という部分とは少し矛盾します。また、『BuzzFeed Japan』では「南九州大会に行けないことは悔しいです」と1年生部員が答えています。つまり、学校側の「自然にまとまった」という認識と、生徒側に泣いた生徒もいて「悔しい」という部分が食い違っているように思えるのです。
なお、『J-CAST』の記事では、顧問教師が「コンテストはまた来年出られるけど、甲子園で吹けるのは県内の1校だけ」と生徒たちが話し、また熊本地震による被災で生じた遠征費用の問題があったとの推測も添えています。
学校と顧問教師の言い分
一方、教員たちはそもそもコンテストの優先を主張していたと西日本新聞では報じており、それも部員は否定していません。このことは、『J-CASTニュース』の取材で吹奏楽部の顧問教員も話しています。そこではより具体的な理由が述べられています。
西日本新聞でも、「7月下旬の職員会議は2日間にわたった。多くの教員が『コンテストに出るべきだ』と主張した」とあるので、ここはある程度は一致します。しかし、わずかに異なる点があるのです。それは顧問教師が「甲子園の応援は残った人間でやればいい」と生徒の自主性を尊重しているところです。
ここで確認しておきたいのは、秀岳館高校・吹奏楽部員の人数です。西日本新聞によると21人です。出場予定だった「南九州小編成吹奏楽コンテスト」は、実施要項によると25人以下の大会です(⇒PDF)。なので、秀岳館高校の吹奏楽部は、全員参加でも小編成しか参加できない規模なのです。
それを踏まえると、本当に生徒が“自主的に”判断できるような状況だったかどうかが気になります。実際、『BuzzFeed Japan』の取材に対し、1年生女子は「コンクールは一人が欠けてしまえば、演奏はできない」と答えています。たしかにフルートが抜けたりピッコロが抜けたりすれば、曲自体を変えなければならなくなります。
となると、顧問教師が「吹奏楽部はコンテストを優先すればいい」としながらも、「甲子園の応援は残った人間でやればいい」と話していることには矛盾が生じます。現実的に、彼女たちはひとりでも甲子園に行きたいひとがいればコンクールは難しいと考えているわけですから、自主性を重んじる点で甲子園しか選べなくなっているわけでます。
もちろん、3~4人が甲子園を選んで、残りの17~18人がコンクールに出ることは可能かもしれません。しかし、半々に分かれれば厳しいでしょう。同時に、その際は曲目変更という別のハードルが加わる可能性も高まります。なにより部活の関係を分断することになるので、そうした選択は非常にしにくいでしょう。
これらを考えれば、たしかに甲子園応援のほうが選ばれやすくなると考えられます。もちろん、生徒たちはコンクールに未練を残しながらですが。
圧力はあったのか?
それよりも気になるのは、今回はネットで卒業生と思しき人物が「学校側の圧力」があったと指摘したことです。この点は、いまいちハッキリしません。
『J-CASTニュース』の取材に対し、顧問教師は「学校側が甲子園の応援を部員に強制したことは一切ありません」と話しています。しかし、その一方で『BuzzFeed Japan』ではちょっとニュアンスが異なります。そこではこのようにあります。
この記事でまず説明が必要なのは、「『こっちをがんばれ』」の部分です。これはぱっと見で主語が不明です。文章の流れとしては顧問教師なのですが、判然とはしません。なぜなら、この話をしているのが「1年生の女子生徒Aさん(仮名)」なので、先輩(2・3年生)の可能性も考えられるからです。
また、この教員がどのような文脈で話したのかも不明です。ただ注視すべきは、「大会に出たかったなんて言うな」(太字筆者)と過去形で言っていることです。これがもし「大会に出たいなんて言うな」という現在形であれば圧力をかけたことになりますが、過去形なので「すべてが決まった後で、後ろを振り返るな」というふうに読めます。これは教師に対して好意的すぎる解釈かもしれませんが、文章的にはそう捉えられます。ただ、なんにせよ、この曖昧な文章からはそれが圧力かどうかは判然としません。
また彼女が1年生であることを考えると、現実的にどちらかひとつの立場を主張することは難しいように思います。彼女自身には今後も甲子園の可能性はあるだろうし(秀岳館はたびたび甲子園に出ています)、コンクールに出ることもできるからです。ですから、彼女自身は未練がありながらもこの判断を受け入れやすいと考えられます。
なお、他の部員たちが決してこの1年生と同じ意見であるとは限りません。いろいろな思いを押し殺している生徒もいるでしょう。同時に、秀岳館高校はベスト4に残っています。もしこれで優勝すれば、吹奏楽部員もその選択をより満足するようになるかもしれません。
そしてもうひとつ補助線を引くならば、野球部など運動部の応援は吹奏楽部にとって決して小さくない役割だということでしょうか。
実際、明日8月20日に公開される土屋太鳳主演で少女マンガ原作の『青空エール』(東宝配給)は、吹奏楽部員の女子生徒と野球部の男子生徒の関係を描いた青春恋愛映画です。吹奏楽部員にとって、運動部の応援が自らの腕前を披露する晴れ舞台だとする認識は、大規模公開の日本映画に見られるほど一般的なものなのです。
自己犠牲の「美談」
さて、ここまで3つの記事を比較してきましたが、生徒側と教師側それぞれの立場や状況を確認することでこの問題が少し立体的に見えてきました。
とは言え、これらだけではこの問題の是非を判断する決定的な材料にはなりません。なぜなら事実関係の確認がちょっと不正確で、とくに『BuzzFeed Japan』のほうは詳細まで押さえていないからです。取材には時間など条件が限られているのですべてを求めることはできませんが、主語が不明だったり、複数の判断ができるような書き方があったり、ちょっと事実関係の確認が曖昧な印象を受けました。
もちろん教員から本当に圧力がなかったかどうかについての確認は必要ですが、非常に大きな被害が生じているとも考えづらいので、犯人探しに躍起になるほどの案件ではないように思います。それは生徒たちの今後のためにも。
また、吹奏楽部における前提も改めて考えなければならないでしょう。つまり、吹奏楽のコンテストと運動部の応援は、吹奏楽部にとってどちらが本義であるのか。そして、今回の秀岳館高校が置かれたように条件的に両者を選ぶことが難しい場合は、どちらを優先すべきかという議論です。
ただ、それらよりも私が気になるのは、あいも変わらず夏になると高校野球でこのような「美談」的記事があふれることです。
2年前の夏にも、野球部のマネージャーに打ち込むために、選抜クラスから普通クラスに転籍した女子マネージャーのことが世を賑わせました。彼女は、おにぎりを2万個握ったことが強調され、「おにぎりマネージャー」とも呼ばれました。このときも、スポーツ紙で「美談」として報じられたことに、多くのひとが疑問を抱いたのです。なお、手前味噌ですが、そのとき大きな話題となったのが、筆者の「『おにぎりマネージャー』の生きる道」という記事でした。
今回の記事で生じている批判も、それに近いものを感じます。吹奏楽のコンテストを諦めて甲子園の応援を優先する姿勢は、選抜クラスから普通クラスに移ったおにぎりマネージャーと重なるような印象を受けるからです。それが実態とどれほど反映しているのかはさておき、そのような読みを誘う物語を西日本新聞は構築してしまったのです。
その特徴は、「自己犠牲」的な側面が「美談」扱いされている点に顕著に現れています。甲子園大会の報道において、「自己犠牲の美談」はむかしからとても好まれます。試合で、送りバントやスクイズなどの“犠牲バント”が多用されるのは周知のとおりですが、高校生の真面目な自己犠牲精神が賛美され、それが「美談」となる傾向は、もはや高校野球報道の定番となっています。
しかし、近年はその自己犠牲的な精神が嫌悪されているからこそ、今回も問題視されたのでしょう。つまり、熱狂的なファンも多い「甲子園」という物語が、その一方で貧しいものとして捉えられつつあるわけです。とくにここ数年は、ファンと一般層の間にかなり乖離が生じている様子がうかがえます。
その理由は、やはり高校野球と、現代の野球や日本社会に大きなズレが生じているからです。ゆえに最大の要因は、やはり多方面から批判されながらもまったく抜本的な改革に着手しない高野連にあるということになります。毎年のように問題視される旧態依然の状況から、高校野球はいつ脱することができるのでしょうか。