高校野球のコンフリクト――「興行」と「教育」に引き裂かれる甲子園
ショーケースとしての甲子園
100年目を迎えた全国高等学校野球選手権大会もベスト4が出揃い、残すは準決勝と決勝を残すのみとなりました。今年の夏の甲子園は、ひさしぶりに大きな盛り上がりを見せています。と言うのも、早稲田実業の清宮幸太郎、東海大相模の小笠原慎之介、関東一高のオコエ瑠偉と、注目されていた選手が揃って準決勝まで進んだからです。彼らは、実力的にもプロ野球へ進む可能性はかなり高いでしょう。
そこで注目したいのは、準決勝に進んだ学校の顔ぶれです。早稲田実業、東海大相模、関東一高、仙台育英、この4校はみな甲子園常連の私立高校です。この4校にかぎらず、現在の夏の甲子園は私立高校の独壇場になっています。この3人も中学時代からボーイズリーグやリトルリーグでの活躍が認められて、地元の強豪校に進んだ選手です。おそらくスポーツ推薦などでの入学でしょう。
実際のところ夏の甲子園は、私立高校が育成したアマチュア野球選手のショーケースの場になっているのです。
圧倒的優位の私立高校
私立高校が甲子園を制覇する状況は、かなり長い間続いています。2007年に佐賀北が優勝した以降、夏の甲子園で公立高校が優勝したことはありません。このときも1996年の松山商以来、11年ぶりの公立高校の優勝でした。90年代以降に限れば、公立が優勝したのは3回しかありません。
こうした状況は、実は1980年代後半から続いています。ベスト4に限って5年単位で見てみると、以下のようにハッキリと私立高校優位の傾向が見て取れます。
この背景にあるのは、少子化です。毎年200万人以上が生まれた1971~1974年(団塊ジュニア世代)をピークに、出生数は減り続けていきます。たとえば現在の高校生である1997~1999年度生まれは、毎年120万人ほどしか生まれていません。1980年代に多くの私立学校はこうした状況を予期して、学生確保の策を講じました。そのときに掲げられたキータームが「SI(スクール・アイデンティティ)」です。
企業の「CI(コーポレート・アイデンティティ)」に倣ったこれは、少子化のなかで確実に入学者を確保するために、学校の独自色を明確にするという経営理念です。たとえば、80年代後半から90年代前半にかけて、多くの私立高校で学校制服がリニューアルされました。学ラン・セーラー服から、有名デザイナーによるブレザータイプに変更されたのです。結果、制服の人気によって入学倍率が大幅に上昇した学校もあったほどです(※1)。
スポーツの充実もSIのひとつでした。これによって、地域外からも優れた才能を持つ生徒を重点的に集めることができます。さらに高校野球に限れば、夏の甲子園は格好の宣伝の場となります。勝ち進めば、毎日NHKが学校名を連呼してくれるからです。
入学者を確保する方法としてもっともオーソドックスな方法は、学力の向上です。偏差値を高めて難関大学の合格者数を増やすのです。しかし、それは簡単ではありませんし、なにより時間がかかります。スポーツ強豪校にするのは偏差値を上げるよりは難易度が低いのです(※2)。
たとえば今大会で言えば、長崎・創成館はまさにそうした学校でした。名物校長の存在で注目されたこの高校は、一時期は破綻寸前にまで追い込まれていました。しかし、そこから設備投資に力を入れたことで野球強豪校となり、定員割れしていた入学倍率も4倍にまで増加したといいます。
このように、夏の甲子園は私立学校の生き残り戦略のための場でもあるのです。ある調査によれば、学校から支給される年間予算の平均は公立が約42万円だったのに対し、私立は約77万円でした(※3)。スポーツ推薦などで集める選手の実力差もありますが、予算額でも大きな違いがあり、その分公立は不利なのです。
ベスト4だけでなく全出場校を見ても、80年代後半に私立が公立を上回り、その割合は年々増しています。今大会は過去最高の49校中39校(79.6%)を私立高校が占めています。公立高校が現在でも甲子園の常連の県は、秋田・岐阜・三重・富山・山口・徳島・愛媛・佐賀など、全体では少数となっています。
高校野球を統括する日本高等学校野球連盟(高野連)も、私立高校が優位な状況に気づいています。そこで2001年の選抜大会(春の甲子園)から設けられたのが、「21世紀枠」です。これは毎年3校だけ(2007年までは2校)、「他校の模範になる」や「困難条件の克服」といった基準によって甲子園に出場できる特別枠です。しかし、その内実は公立高校の救済策です。これまでの15年間では、出場38校中37校が公立高校であることからも、それは明白です。私立が圧倒的に優勢な状況を高野連は必死に隠そうとしているのです。
両立可能な「興行」と「教育」
先日発表した、夏の甲子園の改革案を盛り込んだ記事「高校野球を『残酷ショー』から解放するために」は、大きな反響を呼びました。今年は大会前半に35度前後の酷暑が続いて複数の選手が熱中症となったように、その運営状況はやはり強く疑問視される内容です。
前述したように、甲子園の現状とは選手のショーケースとしての側面があります。ここで見初められた選手は、プロをはじめとして大学や社会人で野球を続けることになります。さらに出場校にとっては、学校を宣伝する格好の場です。そして、これらを朝日・毎日の両新聞とNHKが全面的にバックアップし、観客や視聴者などが楽しむという構図です。
それは間違いなく大きな「興行」です。ここ数年の総入場者数は約85万人(14日間/一日平均約6万人)で推移しています。昨年19公演で83.8万人を動員したSMAPのコンサートツアーや、72試合で122万人を動員した千葉ロッテマリーンズの主催試合を考えれば、それがいかに大きな数字であるかがわかるでしょう。
しかしその一方で、これは高野連が主催する「教育の一環」でもあります。前回の記事でも指摘したように、炎天下のなかで投手を連投させる状況を「教育の一環」だとは捉えにくいですが、高野連はそうした立場を崩しません。
高校野球をめぐる問題の原因は、ここにあります。とても大きな「興行」という実態と、「教育の一環」という理念が、矛盾しながら併存しているところです。それを裏付けるのが、今大会前に発表された朝日新聞高校野球総合センター長の高蔵哲也氏へのインタビューです。
高蔵氏のこうした発言は、致命的な矛盾をはらんでいます。選手に無理を強いる現在の異常な状況を「教育の一環」として等閑視しながら、同時に、高校野球の興行性を「教育の一環」であることを理由に低く見積もっているからです。
たしかに、公益財団法人である高野連は利益追求のために商業性を強めることはできません。しかし、公益性の強化=「教育の一環」のために商業性を強めることには問題は生じません。そもそも2013年度の高野連の入場料収益は6億7796万円だったように、既に夏の甲子園はとても商業性の強い「興行」です。
高校野球の問題は、「興行」の肥大化によって「教育の一環」という理念が形骸化していることにあります。しかし、「興行」と「教育の一環」は、矛盾せずに両立することも可能なのです。それが改善されないのは高野連の公益法人という立場もありますが、より踏み込んで言えばおそらく高野連に「興行」の専門家がいないからでしょう。また、ガチガチに固まった現制度を改革しなくても、大人たちは特段困らないという現状もあります。もちろんそこで蔑ろにされているのは、「教育の一環」という理念ですが――。
「教育」と「プロ野球予備校」のコンフリクト
2007年に発覚した特待生問題は、高校野球界に激震が走りました。これは西武ライオンズが、「学費」や「栄養費」の名目で中学から高校にかけてある選手・Sに金銭を支給していたという一件でした。Sはその費用で高校に進学したものの、大学3年のときに事態が発覚。結果、Sは大学野球部を辞め、所属していた高校の野球部も解散するという事態となりました(※4)。
この一件にはふたつの要点がありました。
ひとつが、学校が生徒に対して学費減免措置などをする特待生制度についてです。当時高野連は日本学生野球憲章を持ちだして特待生制度を廃止する方向を提案していたものの、有識者会議や政府、現場などからの反対を受けて、結果的に一学年5人までの特待生を認めることでまとまり、それは現在も継続しています。前述した私立高校が強くなるのは、この特待生制度が維持されているからでもあります。
より大きな問題は、プロ球団からアマチュア選手への金銭の授受、いわゆる裏金についてでした。結果的にプロ野球ではドラフト会議で希望入団枠制度が撤廃され、その年西武ライオンズは上位指名権を剥奪されるという処分を受けました。才能のある選手を早い段階からプロ野球チームがこっそりと囲い、高校や大学進学までの学費、あるいは親の借金まで面倒を見るという事態が、当時は常態化していたのです。ドラフト会議の逆指名制度・希望選択制度とそれは一体となっていたのです。
こうした状況の背景にあるのは、高校が実質「プロ野球予備校」と化している事態です。それは、裏金問題にメスが入った以降も変わってはいません。そこで生じてくるのが、「教育の一環」という高野連の理念と、高校野球が「プロ野球予備校」と化している実態とのコンフリクトです。
高野連がいくら「教育の一環」を掲げても、私立高校は経営のために必死に有力選手を集め、プロ野球は学校の育成に期待します(甲子園での酷使を心配しながらも)。そこにあるのは、まるで目的の異なる者同士の不安定な共犯関係です。
「戦争ロマン」としての高校野球
高校野球を最初に「残酷ショー」と呼んだビートたけしさんは(※5)、今回の夏の甲子園についてテレビ番組でこのようなコメントをしました。
皮肉込みで語ったたけしさんも感じ取るように、夏の甲子園には戦争の匂いが立ち込めています。
たとえば開会式で、選手たちが大きく手を振り足並みを揃える入場行進は、まさに軍隊のそれです。実際これは戦前の学校体育で規律を訓練するための「行進運動」というものに源流を持ちます。さらに選手たちは軍人のようにみな丸坊主で、試合開始前と開始後のサイレンは空襲警報のように聞こえます。送りバントやスクイズも全体主義的な犠牲精神を感じさせます。
高校野球から立ち込める “昭和”的な雰囲気は、まさにそれが100年前から続いているからにほかなりません。あるいは、この大会を朝日新聞が主催していることからは、同社が先の敗戦を強く認識する代わりに戦争の代替物として維持しているのかな、とすら思えてきます。つまり、「戦争ロマン」に強く惹かれる者が高校野球でガス抜きしているのではないか、ということです。なんにせよ、夏の甲子園は朝日新聞の従来の政治的な立場とは正反対であることは間違いありません。
ここで整理する必要があることは、甲子園が「戦争の代替物」としての側面を持ちながら、同時に「教育の一環」であり「夏の大イベント(興行)」であり、「アマチュア選手のショーケース」であるという、複数の機能を兼ね備えたものだということでしょいう。複雑で多方面に訴求するからこそ、ここまで注目されるのです。
しかし、こうした高校野球は肥大化と時代の変化によってかなり無理が生じてきています。そのソリューションは前回の記事で書いたので繰り返しませんが、新たにもうひとつそれを提示しておきたいと思います。
それはプロのユースチームが正式に発足することです。サッカー・Jリーグでは下部組織が存在していますが、日本ではプロが育成目的の組織を有している状況にはありません。これは高校野球をはじめ、社会人や大学などアマチュア組織が充実しているからでもありますが、野球組織自体がプロからアマチュアまで正式に一本化なされていないからでもあります。
Jリーグと高校サッカーが共存共栄しているように、高校野球の現状を緩和するためにはユースチームの拡がりがおそらくいちばんの近道でしょう。実際に独立リーグの拡大や、高野連に属さない野球部を持つ芦屋学園ベースボールクラブの発足など、その萌芽は少し見られつつあります。そこでは「教育の一環」や「興行」といったことは重視されず、「プロ育成機関」というところに力点が置かれます。
ユースチームの存在は、アマチュア選手に新たな選択肢を与えるという点でも有効です。怪我を防止しながらじっくりとプロを目指したい高校生もいれば、甲子園で燃え尽きたい高校生もいるでしょう。さらに単なる部活動として野球を楽しみたい高校生もいるでしょう。しかし、夏の甲子園優勝校を頂点とする現状の高校野球は、肥大化したがゆえにそれらのさまざまなニーズに応えられなくなっているのです。
2007年に特待生問題が起きて高野連が特待生制度の廃止を打ち出した際、水面下では「第二甲子園」を作る案が講じられたといいます(※6)。これは強豪私立高校が一斉に高野連を脱退して国会議員などが取りまとめて新団体を作り、それでべつの高校選手権をおこなうというものでした。もちろんこれは実現にはいたりませんでしたが、今後も「教育の一環」を旗印に現在の異常な状況が続くようであれば、「第二甲子園」待望論は自ずと高まってくることでしょう。
高野連に望まれるのは、体面にこだわらない抜本的な改革です。今後も、厳しい目で高校野球を見守りたいと思います。
※1……制服のモデルチェンジは、学ラン・セーラー服を改造することによるヤンキースタイルを防止する策でもありました。しかしブレザー化することによって、コギャルスタイルが生まれるきっかけにもなったのです。詳しくは、拙著『ギャルと不思議ちゃん論:女の子たちの三十年戦争』(2012年/原書房)を参照。
※2……三田紀房+田尻賢誉『砂の栄冠 甲子園研究所』(2015年/講談社)参照。
※3……手束仁『高校野球マネー事情』(2012年/日刊スポーツ出版社)。なお、調査対象は首都圏と東海地方の185校(うち私立57校)。
※4……当時、裏金を渡していたのは西武ライオンズの鈴木照雄スカウトでした。後に鈴木氏は、金銭支給していた選手が所属していたボーイズリーグ(中学生向け少年野球)のチームの監督に就任します。このあたりの経緯は、軍司貞則『高校野球「裏」ビジネス』(2008年/ちくま新書)に詳しいです。なお、この一件には続報があります。金銭支給を受けていたSは、鈴木氏の後を受けて現在のチームの監督を務めています。
※5……東京スポーツ2014年7月22日付 ビートたけし「たけしの世相メッタ斬り」。
※6……軍司貞則、同前。
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