江夏 豊・落合博満・野茂英雄――現代のプロ野球にも求められる一匹狼という魅力的存在【その2】
「私は、人間味溢れる選手が好きだね」
江夏 豊の言葉である。
かつては評論家活動の傍ら、地元の草野球チームの監督を引き受け、時間が許す限り采配を振りにグラウンドへ足を運んだ無類の野球好きは、楽しそうに、かつ個性を輝かせてプレーする選手を見ると大きな喜びを感じるという。
江夏が、そこまで野球に魅せられている理由は何か。それは、グラウンドが最大限の自己表現を可能にする空間だからであり、江夏自身がそんな幸せな野球人生を過ごしてきたからだと言える。江夏はこうも言う。
「どんな世界でも、エリートだけではつまらないだろう」
江夏は、1966年秋のドラフト会議で巨人、阪神、東映(現・北海道日本ハム)、阪急(現・オリックス)から1位指名を受けた注目の存在で、抽選によって阪神が交渉権を得る。だが、江夏自身は「自分は甲子園にも出ていないからエリートではない」と浮かれることはなく、阪神入りが宿命であったとばかりに巨人、中でもONに対しては闘志を剥き出しにして挑みかかった。
2年目には25勝でタイトルを手にし、シーズン401奪三振という驚異的な日本記録も樹立。早くもスターダムにのし上がったが、それは正統派ヒーローとしてではなく、先輩の村山 実と同様にONの敵役という存在だった。
巨人の本拠地だった後楽園球場に乗り込んだ時は、ピンチでONを打ち取り、大きなため息の中でゆっくりとマウンドを降りるのが快感だったという。江夏は、そんな悪役を演じながら実績を着々と積み上げていく。
どんな時間も厭わず、あらゆる手段を駆使して自らの技術を高めていくことに没頭した。すべては打者との勝負を制し、チームを勝利に導くためである。だから、練習でも試合でも納得できないことがあれば、相手が監督であっても食ってかかった。だが、そんな存在はいつしかチーム内で浮き上がり、1975年には南海(現・福岡ソフトバンク)へのトレードを通告される。
入団から9年連続で2ケタ勝利を挙げているエースのトレードは、様々な憶測を呼ぶ。しかし、江夏は「20勝は当たり前の俺が2年続けて12勝止まりだったから、出されるかなとは思っていた」と平然と言ってのけ、新天地へ旅立ったのである。
先発完投が美学の時代にリリーバーへ転向する
移籍1年目、1976年の江夏は苦闘のシーズンを送り、6勝12敗と低迷する。阪神での9年間で通算159勝をマークし、ONの好敵手と呼ばれた左腕も、プライドや信頼関係をズタズタにされては、さすがに立ち直れないのではないかと見られた。
ところが、選手兼任監督だった野村克也にリリーバーへの転向を説かれると、見事なまでの変身でこれに応えた。まだ先発完投が美学とされていた時代に、エースまで務めた男が他人の尻拭いのために、毎日のように荒れたマウンドで奮闘したのである。そんな姿は、周囲の目には『江夏復活』とは映らなかった。むしろ、「リリーフにまわされるほど落ちぶれた」という印象が強かったに違いない。
それでも江夏は構わなかった。マウンドで打者と勝負できるのだから。そして、リリーバーとしての腕や感性を徹底して磨き上げ、「優勝請負人」の異名を取るほど絶大な信頼を得る守護神として、再び球界の頂点に君臨したのだ。
1979、80年に広島、1981年には日本ハムを優勝に導いた江夏は、救援投手の記録でもトップを走り続ける。そうして、1984年には黄金時代の構築を目論む西武に迎えられたが、組織野球を押しつける廣岡達朗監督と衝突すると、1年限りで退団。36歳でメジャー・リーグに挑戦するという信じられない意欲を示し、夢破れると静かにユニフォームを脱いだ。アンチ・エリートが歩んだ道には、どんなエリートでも成し遂げられなかった数々の記録が残されていた。