Netflix「新聞記者」と週刊スピリッツ新連載、同じ事件から生まれた別々の物語
話題のドラマ「新聞記者」の、作り方の問題
ドラマ「新聞記者」が話題になっている。世界最大の動画配信プラットフォームNetflixで1月13日から配信されているのだ。好意的な論評が目につくので期待がふくらんだが、視聴して筆者は大きな問題を感じた。
役者陣が重厚な演技でこの題材に望んでいるのは様々な記事で言われている通りだ。その点は素晴らしい。だが悪役は絵に描いたような悪人、という描き方にはいささか白けた。一昔前の時代劇のようではないか。
ただ筆者が感じた「問題」とはそういう一般的なドラマとして、ではない。このドラマのそもそもの”作り方”が、物語の作り手としてモラルを欠くと感じたからだ。
このドラマが森友事件における公文書改竄を題材にしているのは誰もがすぐにわかることだ。土地の不当な値引き、それに関連する公文書の改竄命令、それを苦に自殺した現場の官僚、事実を知ろうと裁判を起こす遺族などが、取材した新聞記者の視点で描かれる。
だが近畿財務局の事件が中部財務局(実在するのは東海財務局)に置き換えられ、登場人物はすべて実際の名前は使われていない。
名前が実名でないのはいいとしても、これまで事実として判明していないことまで描かれている。これは大問題だと感じた。もっとも驚いたのは、土地の値引額が示され「総理の指示」と官僚が伝える場面が出てくることだ。「そこまで判るなら誰も苦労しないよ」私は思わずつぶやいた。
実際とは明らかに違う場面も次から次に出てきて、ドラマのために事実を捻じ曲げていると思えてしまう。
事実上Based on a true storyなのに「架空」?
欧米の映画では「Based on a true story」のクレジットを最初に示し、実際の出来事を事実にできるだけ忠実に描くものがある。多少の翻案はありつつも、起こった出来事や登場人物はそのまま描くのだ。取材した事実をまとめた記事や書籍を原作とするのがほとんど。実在の人物に似た役者をわざわざキャスティングすることも多い。最後に登場人物たちの"その後"を、本人の写真とテキストで解説することもあり、事実の迫力に圧倒される。作り手たちの、クレームや訴訟も辞せず事実を伝えたいとの覚悟も感じる。
ドラマ「新聞記者」も、多少の翻案はあるとしてもてっきり同様の手法と思って見たので戸惑っていたら、第1話が終わったところでこう表示された。
「この作品に登場する人物及び出来事は架空のものであり、実在のものを描写するものではありません。」
筆者は一時期、森友事件と裁判の詳細な情報が得られていたので、普通の人よりはこの件に詳しく、思い入れもある。
だから事実にこだわって見てしまうのだが、このドラマの作り手たちが何をやりたいのかわからなくなった。できる限りの事実を伝えたいのか?それなら「Based on a true story」の手法に則り、実名を出すかはともかく、事実に忠実であるべきだった。
事件を題材にした娯楽作品にしたいなら、いくつかの事件をもとに架空の事件を創造するべきだった。そのどちらでもない、中途半端な描き方に筆者には思える。
また、このドラマによって誤った事実が広まってしまうのも大きな問題だ。Twitterを観察していると、ドラマで初めて森友事件の全容を知った人も多い。彼らは丸々事実と受け止めているようだ。知らなかった人にはぜひ知って欲しいが、だからこそ事実に即して知ってもらうべきではないだろうか。
さらに言えば、このドラマが告発したい相手の人々は、いくらたくさんの人が見ても痛くも痒くもないだろう。実際、保守政権シンパ側の人々が「ファンタジーだ」と嘲笑うツイートが多く見られた。そう言われても仕方ない。結局はいつもの左右の分断を巻き起こしているだけだ。
遺族に協力を断られたのに製作を進めてよかったか?
だがこのドラマの最大の問題は、当事者(自殺した人の遺族)の協力を断られたのに製作を強引に進めたことだ。ドラマの企画時に遺族が協力を拒んだことが伝えられた。ドラマを見て、断るのは道理だと思った。事実ではない場面があまりにも多いからだ。
よく知られているように、遺族は裁判の最中なのだ。2つのうち一つは前代未聞の「認諾」で終わったが、もう一つがこれから進む。どんな裁判でもそうだが、この件は特にデリケート。何が影響しないとも限らない。
もしドラマ「新聞記者」に遺族が協力していたら、裁判にどんな影響が生じるかわからない。何しろ、実際には証明されていないことを次々に、さも本当のことのように描いているのだ。裁判を有利にするために嘘を拡散していると言われる可能性もある。遺族はこのドラマには絶対に協力できなかったはずだ。
ドラマ「新聞記者」は、遺族の側に立った物語を、遺族に協力を断られたのに作ってしまった。これほどおかしなこともない。
法的には問題ないのかもしれないが、作り手としてのモラルはどこにあるのか。少なくとも協力が得られるよう話し合いを続けるべきではなかったか。製作を進めるにしても、せめて裁判が終わるまで待つのが作り手としてのモラルだと、筆者は考える。
同じ事件を題材にした、もうひとつの物語
さて1月24日発売の週刊ビッグコミックスピリッツで新連載の漫画がスタートした。「がんばりょんかぁ、マサコちゃん」という泥臭いタイトル。原作は宮崎克、漫画は魚戸おさむとある。ただこの漫画にはもう一つクレジットがある。取材協力として、赤木雅子、相澤冬樹の名が示されているのだ。
赤木雅子氏は、実際の森友事件で自殺した赤木俊夫氏の妻、つまり裁判を起こしている遺族だ。Netflix「新聞記者」では鈴木真弓という架空の人物にされてしまっているが、ちゃんと実在する。相澤冬樹氏は、赤木雅子氏から俊夫氏の手記を託されてスクープした元NHKのフリーランス記者。「新聞記者」では松田という女性記者にされてしまったが、実際には白いものが頭に目立つ男性だ。
第一話では主人公が自宅に駆けつけて夫の自殺を発見するショッキングな場面から始まるが、"マサコさん"が漫画を描くための取材を受けて、夫・トッちゃんとの幸福な生活を振り返るほのぼのした回でもある。そこから、酷い現実が描かれることを予感させて「次号へ続く」とあり、これから毎週掲載されるのだろう。
世界最大の映像プラットフォームのドラマ製作への協力を断った森友事件の遺族が、ドメスティックな雑誌に載る漫画への取材協力を受けた。なんとメディア的な現象かと驚いた。
裁判で国家権力に抗いながら、一方で巨大プラットフォームにも一矢報いようとしているようにも見える。
この漫画にもクレジットが記されていた。「この作品はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありませんが、実在する人々の切なる想い、祈りには大きく関係しています。」
漫画の前半の、枠外に小さく表示されている。ひょっとして、ドラマを見てから書き加えたのかな、などと勝手な想像をしてしまう。「私たちの想いと祈りがわかるか?」とドラマ側に訴えているように思ってしまうのは筆者だけだろうか。
かくしてまったく同じ時期に、同じ事件を題材にした物語が2つのメディアで展開される不思議な現象が起きている。同じ原作の映画やドラマと漫画や小説が並ぶのは「メディアミックス」としてよくあるが、この2つはまったく同じ事件を題材にした、まったく別の物語なのだ。
ドラマの方は最後の第6話まで配信済み。漫画の方は長期的に連載されるのだろう。どんな展開になるか、楽しみだ。ドラマのことをさんざん批判したが、ドラマを見て漫画を読むと、事件についてより深く理解し、共感できるだろう。ぜひ両方とも見てもらいたいと思う。