痛い、田村負傷。明大、散る。
不運だった。明大にとっては、ゲームメーカー、FB田村煕の序盤の負傷退場が響いた。主将のフッカー、中村駿太は漏らした。「ことしのメイジのキーマンなので、(田村を)欠いてしまったというのは、非常に痛かったです。僕としては、決勝に行って、田村を絶対、もう一回、(試合に)出させるという気持ち、ただ、それだけでした」
力と力の激突だった。紫紺のジャージと青のジャージがぶつかる。強力FWで鳴る東海大に対し、やはりFWを看板とする明大は真っ向勝負を挑んだ。スクラムでは重圧をかける。スーパーラグビーに参戦する日本選抜「サンウルブズ」のメンバー、東海大3番の平野翔平の押しも抑えた。
明大バックスも勢いよく前に出る。とくにFB田村がラインをうまくコントロールし、両ウイングを走らせた。だが、前半6分あたり、田村が相手ゴール直前まで快走を飛ばしたあと、つぶされた。前半9分、明大ウイング、成田秀平が先制トライを挙げた。
直後、田村は交代した。代わった齊藤剛希がウイングに入り、成田がFBの位置に入った。田村負傷退場によるチームへの動揺は?と聞かれ、中村主将は「そんなに動揺はなかったと思います」と言った。「成田もがんばってくれましたし、代わった齊藤剛希もしっかり(田村の)穴というか、そこを埋めてくれたんじゃないかと思います」
でも、影響は微妙に大きくなっていく。前半の12点のリードも、後半、攻め急ぎが目立つようになった。FW周辺にこだわりすぎた。チャンスでのラインアウトのミス、スローフォワード、オブストラクション、判断ミス…。丹羽政彦監督は「基本的にゲームプランは変えていないのですが」と振り返った。
「なんとかディフェンスをこじあけようとして、バックスも(FWに)近いところにいっていました。田村が早々に出ていったということもあって、選手の中で、なんとか修正しないといけない、なんとか自分でやんないといけないという気持ちが前に出てしまったようです。もう少し、フェーズを重ねて、我慢して、アタックしていれば、もうちょっと違った結果になったのかなと思います」
後半、ペナルティーは相手の2個に対し、明大は6個、犯した。走力が鈍る。ブレイクダウン(タックル後のボール争奪戦)で後手を踏んでいく。いくつかのパターンでうまく対応していたモールディフェンスが後半28分、東海大の塊(かたまり)に崩された。トライ(ゴール)で逆転を許した。
後半は無得点に終わった。勝負に「たら・れば」は禁物だが、もしも、後半中盤あたりにPGひとつでもいいから、追加点を入れていれば、勝敗は変わっていただろう。結局、19-28で試合終了。明大の17大会ぶりの決勝進出は成らなかった。
それにしても、勝てば、17大会ぶりだったとは。書いていて愕然とする。17年前の1998(平成10)年度といえば、金谷福身ヘッドコーチ、山岡俊キャプテンの時である。たしか、ナンバー8には日本代表となる3年の斉藤祐也さんがいたっけ。
ことしは、いいチームだった。好キャプテンシーの中村主将のもと、田村や4年生がよく、まとまっていた。家族と離れ、単身、北海道から上京してきた就任3年目の丹羽監督はラグビー部寮に住み込み、生活のディシプリン(規律)からただし、フィジカル強化のトレーニングからグラウンド練習まで質量が充実していた。
もともと選手の素材は悪くない。きっちり練習すれば、チームは確実に強くなる。対抗戦グループでは王者帝京大と接戦を繰り広げ、シーズンが深まるとともに15人でボールを動かすラグビーは勢いを増していた。振り絞られた意地はファンを喜ばせた。だが、『完全復活』とまではいかなかった。
敗戦後の記者会見は、明大らしい清々しいものだった。丹羽監督は「中村主将以下、4年生が一生懸命がんばっていた。優勝に導けなかったのは、私の責任だと思います」と自分を責めた。中村主将もまた、潔かった。開口一番、メディアに向かってこう言った。
「お疲れさまでした。あけましておめでとうございます」
負けた直後にである。まっすぐ前を見つめ、毅然と続けた。
「結果として、負けてしまった。うちより、東海のほうが強かった。そういうことだと思います。東海大学には決勝で是非、勝ってほしいと思います」
ラグビー、とくに学生ラグビーはコレである。故・北島忠治御大が育て上げた明大伝統の矜持を垣間見た。確かな手応えと悔しさという糧を得て、新たな1年がはじまる。ああ、『明大復活』が見たい。