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涙の堀江翔太、新たなステージはスポーツトレーナー関係か

松瀬学ノンフィクション作家(日体大教授)
リーグワン決勝戦後の堀江翔太。涙の最終戦となった=26日・国立競技場(写真:アフロ)

 ラグビー人生との惜別ゆえか、緊張からの解放ゆえか。今季限りの引退を表明していた埼玉パナソニックワイルドナイツ(埼玉=旧パナソニック)のフッカー堀江翔太は試合後、大粒の涙を流した。

 なぜ? 涙が乾いた38歳は苦笑しながら振り返った。

 「泣かずにいたいと思っていたんですけど、太郎さん(小池=代理人)と最後会って、ホッとしたというか、安心したというか。めちゃくちゃ世話になった人と顔を合わせちゃうともう、ダメでした。ラグビー生活30年間、プロで15年間、ほんとうにいいラグビー人生を過ごせたのかと思います」

 ◆あぁスローフォワード「漫画みたいにいかない」

 国内ラストゲームは、5月26日のリーグワン・プレーオフ決勝だった。5万6986人が詰めかけた東京・国立競技場。ノーサイド直前、堀江の巧みなパスでつないだトライで逆転したかと思われたが、ビデオ判定(TMO)の結果、堀江のパスはスローフォワード(ボールを前方に投げる反則行為)と判定された。「幻の逆転トライ」に。

 埼玉は、20-24で敗れた。堀江は有終の美を飾れなかった。最後のワンプレーがスローフォワードとは。「ほんとうにこう」と漏らし、小さく笑いながら続けた。

 「優勝引退という、漫画みたいに、ドラマみたいにいかないのが、非常に僕らしくて。やっぱ、そんなうまいこと、いかんなと。神様にそう教えられたみたいな感じです」

 ◆挑戦の連続。「悔いなきラグビー人生」

 堀江は「挑戦」と「縁」を大事にしてきた。大阪府吹田市出身の堀江は小学5年でラグビーに出会った。大阪・島本高、帝京大でラグビーに熱中し、2008年、三洋電機(現パナソニック)に進むと、ナンバー8からフッカーに転向。直後、ニュージーランドにラグビー留学した。座右の銘が『勇気なくして成長なし』

 2009年に初めて日本代表に選ばれ、2011年、15年、19年、23年の4大会のラグビーワールドカップ(W杯)に出場した。15年イングランド大会の“ブライトンの奇跡”と呼ばれた南アフリカ戦勝利にも貢献。19年日本大会の日本代表の史上初のベスト8進出の原動力となった。スクラムワークの巧みさ、フィールドワークの走力、パスプレーの判断のはやさと技術、どれをとっても超一流だった。

 加えて、その存在感も強烈だった。トレードマークのドレッドヘアを結び、パンツの裾をまくり上げる。キャリア終盤はチームの精神的支柱となり、「ラスボス」の異名もとった。

 実直、誠実。飾らない性格。「悔いなく、ラグビー人生を送ることができました」と言い切った。一片の後悔もなし、と。

 「生まれ変わっても、ラグビーはしません。それくらい十分、ラグビーをしてきて、幸せなラグビー人生を歩んできたと思います」

 ◆次のステージでも自分が成長できるか

 引退後の人生設計はどうなのだろう。埼玉のロビー・ディーンズヘッドコーチが指揮をとるバーバリアンズの一員として6月22日のフィジー戦(英トゥイッケナム)に招集されることにはなっているが。

 堀江は言った。

 「ほんと、これから社会の荒波にもまれると思うので、しっかりと次のステージで、自分がどう成長できるかにフォーカスをおきたい。ある程度、ラグビーでは経歴がすごいですけれど、社会に出たら、そんなの全然関係ないので。自分を見つめ直して、偉そうにならず、いろいろと勉強しながらいきたいなと思います」

 これからは、何をしたいですか、と重ねて聞いた。堀江は「佐藤さんのところで」と応えた。佐藤さんとは、佐藤義人トレーナーのことである。堀江は20代の後半、首のけがに苦しんでいた。だが、2015年W杯の半年前、手術に踏み切り、佐藤トレーナーの指導でコンディションが劇的に改善されたのだった。その後も、同トレーナーの世話になってきた。

 「30歳ぐらいで佐藤さんと出会って、このトシまでできたのは、佐藤さんとのトレーニングのおかげだと思っています。大けがをして佐藤さんとやってきましたけれど、もっと若いうちから佐藤さんを知っていれば、けがもなく、もっといいパフォーマンスを出せたのかなって。そういったことを、ラグビー選手だけでなく、いろんなスポーツ選手にも伝えていきたいなと思っています」

 つまりは、S&C(ストレングス・アンド・コンディショニング)やからだの使い方、トレーニングなどを教えるスポーツトレーナーということだろう。堀江はコミュニケーション能力も抜群だから、よきトレーナーを育てることもできるだろう。

 そういえば、堀江はかつて、運動力学の基礎や身体運動の仕組み(メカニズム)を知ることがいかに重要かを強調していた。子どもたちに自分のようなけがをしてほしくないとも考えている。トレーナーを育成する講習会の講師などもあり、かもしれない。

 ◆トレードマークのドレッドヘアは?

 いずれにしろ、新たなステージでも挑戦していくのだろう。「これから、ワクワクすることは?」と聞いてみた。

 「はい、練習しなくていいですから」と記者の爆笑を誘い、「旅行かな」と言葉を足した。

 「これまでは家族で旅行にいっても、常にいつラグビーの練習を入れようかと考えていました。そういう必要はもうなくなるので。ゆっくりと。ちょっと太らないよう気をつけなあかんなと思います」

 旅行でどこか行きたいところは。

 「ニュージー(ランド)とか、オーストラリアですか。子どもたちが、僕のラグビーで成長したところを知らないですから。お世話になった人がニュージーにもオーストラリアにもいるので、あいさつがてら、家族で海外旅行にいきたいなという思いはあります」

 これまで食べられなかったもので食べたいものは?と問えば、「なんすかね、なんやろう」としばし考えた。

 「ラーメンとかハンバーガーとかですか。(ファストフードの)ハンバーガーとかはまったく食べてないので、まあ全然、まだ食べる気にはなってないですけど、食べてみたらどうなるんやろうっていう感じです」

 最後に一番気になっていたことを聞いてみた。その独特の髪型はどうしますか、と。

 堀江は右手でそのドレッドヘアを触り、声を出してわらった。

 「わからない。どうしようか。目立っているんでね」

 堀江の最大の持ち味は、魅力的な人間力なのだろう。いつも愉快でまっすぐのラスボスは、チームメイトだけでなく、ファンや取材者、相手チームのメンバーまでも、ラグビーという競技の喜びに浸らせてくれたのだった。

ノンフィクション作家(日体大教授)

早稲田大学ではラグビー部に所属。卒業後、共同通信社で運動部記者として、プロ野球、大相撲、五輪などを担当。4年間、米NY勤務。02年に同社退社後、ノンフィクション作家に。1988年ソウル大会から2020年東京大会までのすべての夏季五輪ほか、サッカー&ラグビーW杯、WBC、世界水泳などを現場取材。人物モノ、五輪モノを得意とする。酒と平和をこよなく愛する。日本文藝家協会会員。元ラグビーワールドカップ組織委員会広報戦略長、現・日本体育大学教授、ラグビー部部長。著書は近著の『荒ぶるタックルマンの青春ノート』(論創社)ほか、『汚れた金メダル』『なぜ、東京五輪招致は成功したのか』など多数。

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