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イエメン紛争がいまいちわからない理由

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
(写真:ロイター/アフロ)

イエメンって何?

 イエメン共和国はアラビア半島の南東に位置する、面積約55万平方キロメートル、人口約2900万人(2018年国連の推計)の国である。とはいえ、現在の形になったのは1990年の南北イエメン統一と、1994年の内戦を経た結果である。サナアを中心とする北部では、第一次世界大戦後ザイド派の指導者(イマーム)を首長とする王国が樹立されたが、1962年の革命によるイエメン・アラブ共和国建国、エジプトによる干渉を経て、1970年まで内戦が続いた。南イエメンは、19世紀にイギリスが中心都市であるアデンを占領支配していたが、1967年に独立してイエメン民主主義人民共和国となった。1994年の内戦の結果、旧北イエメン勢力の優位が確定し、アリー・アブドッラー・サーリフ(2012年に辞任。2017年末に殺害された)による長期政権が続いたが、度重なる戦乱や弱体な中央政府、葉を噛むと軽度の覚醒作用があるカートの栽培と使用の広がり、そしてイスラーム過激派の跋扈のような問題を抱え、世界最貧国の一つとして知られていた。

 2011年に「アラブの春」が波及した抗議行動により、サーリフ大統領が辞任すると、GCC諸国による提案と国連安保理決議に基づく政治移行が図られ、アブドラッボ・ハーディーを大統領として移行が進められた。この移行が失敗したことこそ、今日の紛争の端緒と言える。

何故紛争が起きた?

 イエメンでの紛争はあたかもサウジ(或いはアメリカ)とイランとの代理戦争・国際紛争である、或いはスンナ派とシーア派との宗派紛争のように思われるかもしれないが、それはイエメン紛争の諸側面の一部に過ぎない。

国内の事情

 イエメン国内の紛争との側面から考えると、2012年以来の政治的移行の失敗なり、移行過程の欠陥なりが重要な原因である。政治的移行は、サーリフ大統領を辞任させたものの、同人やその与党を問責することなく、引き続きイエメンの政界や軍で勢力を温存させるという問題をはらむものだった。その結果、サーリフ元大統領らは復権、ないしは既得権益の保持をめざし、アンサール・アッラー(俗称:フーシー派)と野合してハーディー政権を放逐するに至った。

 北部の辺境地域のザイド派信徒からなるアンサール・アッラーは、地域の政治・社会運動として2002年ごろから顕著な動きをするようになった。これに対し、サーリフ政権、ハーディー政権は、時にイスラーム過激派、時にアル=カーイダ「系」、時に親イラン勢力とレッテルを張り、両者は衝突を繰り返した。そして、当初から紛争前の政治過程に破綻に至るまで、北部の辺境地域の人々への政治的権益の配分はないがしろにされがちだった。同様に、イエメン南部にも1994年以来の北部による覇権に不満を持つ人々がおり、彼らは時折分離独立派として抗議行動を行っていた。彼らへの権益の配分も政治的移行の過程で十分配慮されず、こちらもイエメン紛争の当事者となっていった。現在は、「南部移行評議会」と配下の武装勢力がアデン市内の重要施設を制圧するに至った。この結果、「国際的に承認されている」はずのハーディー政権は、イエメン国内ではろくに活動できず、大統領以下閣僚や議員、同政権を承認しているはずの各国外交団もイエメンに入ることが難しくなっている。

国際的な事情

 アンサール・アッラーについて解説した別稿の通り、彼らが宗教的な動機でイランと結びついていると信じるのはいささか無理がある。そもそも、ザイド派はイランの国教である12イマーム派のシーア派とはずいぶん異なる宗派で、この二つの宗派の信徒間に宗教的仲間意識が生じるとは限らない。また、アンサール・アッラーも、別にイエメンのザイド派全体を代表する勢力というわけでもない。となると、イエメンでサウジ(+アメリカ)とイランとが争うのは、宗教・宗派的理由ではなく、ペルシャ湾をはさんで対峙している両陣営にとって押さえておきたい場所だ、という動機が先に立つだろう。実はイランにとって、中東全域を見回しても12イマーム派のシーア派の信仰を共有するという意味での「仲間」はイラクとレバノンにいる程度である。

イスラーム過激派

 アル=カーイダをはじめとするイスラーム過激派も、イエメン紛争の重要な当事者である。イエメンでは、2000年夏にアデン港でアメリカ軍の駆逐艦がアル=カーイダの攻撃により大破した事件が発生している。また、2008年~2010年ごろは、「アラビア半島のアル=カーイダ」がイエメンに拠点を置きつつ、アメリカの航空機内で爆発物を発火させる事件を起こしたり、英語機関誌で様々な攻撃の手段を世界中に発信したりした。さらに、「アンサール・シャリーア」という別動隊を用いて領域支配を試みたこともあった。ここに、2014年から「イスラーム国」に従う者たちが「州」を設けたと主張して活動するようになった。アル=カーイダと「イスラーム国」は相互に対立し、時に交戦しつつも、彼らから見ると異教徒に過ぎないザイド派のアンサール・アッラーを攻撃した。サウジが率いる連合軍は、イスラーム過激派を特に鎮圧する様子もない。アメリカは、オバマ政権時代からイエメンのイスラーム過激派に対し頻繁に無人機を用いた爆撃を実施し、しばしば誤爆による被害を出している。

紛争当事者を蔑称で呼ぶ弊害

 イエメン紛争の実態がいまひとつわからない最大の理由は、構図が「複雑だから」ではない。「複雑」ならばそれを伝える報道機関や専門家が努力すればいいだけなので、「複雑さ」はイエメン紛争の実態がよく伝わらない理由にはならない。こちらも、イエメン紛争の実態を世界中の世論から遠ざけているのは、紛争当事者間の情報発信・流通能力の不均衡だと思われる。つまり、サウジやUAEは財力が豊富で報道機関にも専門家にも影響力を行使して、世間を自陣営に有利な情報で埋め尽くすことができるが、もう片方の当事者にはそれができないのである。その結果、イエメンでどんなに人道危機が深刻化しても、白いヘルメットもツイッター少女も決して出てこないのである。このような事態を招いている理由は、紛争の当事者を「フーシー派」なる蔑称で呼称し、そこに「シーア派の」とか「親イランの」などなど彼らの属性を正確に示すとは限らない枕詞をつけている点にある。蔑称なので報道機関や専門家毎に、ホーシ、フーシ、フーシー…など呼称が異なることにさほど意味はない。意味がある点は、観察対象に対し蔑称を用いる主体は観察対象をまじめに観察するつもりが乏しいというところだけだ。

やっぱり、全て誤解だ

 観察対象を蔑称で呼ぶ(要するに感じの悪いあだ名をつける)ことは、対象への否定的評価を予め予断として抱き、否定的な属性以外を無視する行為に他ならない。つまり、イエメン紛争の当事者の呼称で蔑称を用いる以上、そうする主体はイエメン紛争に臨む上での政治的立場や評価を確定させているのである。その結果、イエメン紛争においては蔑称で呼ばれる側(=アンサール・アッラー)のすることは常に悪事であり、彼らが発信する情報はいつでも「信憑性が乏しい」ことになり、別の当事者はその逆、という予断が定まる。アンサール・アッラーやイランの発信する情報が「正しい」わけでは決してないが、サウジやUAE、アメリカの発信する情報にしても、「比較的まし」という程度の差に過ぎない。彼らが選択・発信する情報がいかに信頼できるかについては、今更フセイン政権の大量破壊兵器保有についての情報や、ジャマール・ハーショグジー(カショギ)の運命についての情報を例示するまでもないだろう。蔑称や俗称に付随する属性やイメージに囚われると、物事の観察や分析で致命的な落とし穴にはまりかねない。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会、『シリア紛争と民兵』晃洋書房など。

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