【九州三国志】九州制覇の夢とその果て!島津義久、豊臣の勢威に挑む激動の戦い
天正12年(1584年)、龍造寺氏が島津氏の軍門に降伏し、肥後・筑前・筑後の諸国が次々と服属していきました。
翌年には肥後の阿蘇惟光を下し、島津氏は肥後を完全に掌握。
さらに九州全土を手中に収めるべく、大友氏の本拠地への侵攻を開始します。
しかし、豊臣秀吉から「惣無事令」が届き、戦を止めるよう命じられるも、義久はこれを無視し、さらなる進軍を決断しました。
筑前攻めでは岩屋城や宝満山城を落としましたが、損害も大きく、撤退中に立花宗茂の追撃を受けるなど苦戦が続きます。
その後、義弘・家久をそれぞれ肥後・日向から豊後攻略に向かわせますが、直入郡の諸城攻略に手間取り、家久が単独で大友氏の本拠地を攻めることに。
家久は戸次川の戦いで釣り野伏せの戦法を駆使し、豊臣連合軍を壊滅。
長宗我部信親や十河存保を討ち取り、府内城や臼杵城を包囲するなど勝利を重ねました。
しかし、天正15年(1587年)、秀吉は10万を超える軍勢を率いて九州征伐に乗り出します。
豊臣軍の進軍を前に、島津軍は次第に押し込まれ、肥後や日向の諸大名も次々と豊臣方に下りました。
島津軍は高城川の根白坂で夜襲を仕掛けますが失敗に終わり、ついに薩摩へ敗走。
秀吉の圧倒的な軍事力を前に、義久は鹿児島で剃髪し、龍伯と名を改め降伏。
泰平寺で秀吉と面会し、九州統一の夢はついえました。
義久の降伏後も義弘らは抗戦を続けますが、義久の説得を受け最終的に従います。
一方、歳久は降伏に不服を示し事件を引き起こすなど、島津一族の軋轢も残りました。
それでも島津氏は豊臣政権下で本領を安堵され、その名を存続させることに成功したのです。
九州制覇の夢は消え去ったものの、その闘争の軌跡は一族の誇りとして刻まれました。