【九州三国志】耳川から沖田畷へ!島津義久、その知略で九州を制す
天正6年(1578年)、島津義久は日向国に侵攻してきた大友宗麟率いる4万を超える大軍に対峙しました。
総勢3千の兵を高城に籠め、大友軍との一進一退の攻防を繰り広げます。
やがて義久自身が2万の援軍を率いて高城川の対岸に布陣。
釣り野伏せの奇策により大友軍を高城川の向こうで迎撃し、伏兵で壊滅させると、首級2千以上を挙げる大勝利を収めました(耳川の戦い)。
この勝利により、島津氏の勢力は日向から肥後国にまで及び、大友氏は大きく勢力を後退させました。
さらに天正10年(1582年)、島津氏は肥前国の龍造寺隆信との対立に挑みます。
沖田畷の湿地帯で総大将・島津家久が巧妙な戦術を駆使し、わずか5千の兵で龍造寺軍2万を撃破。隆信を討ち取るという大勝利を収めました(沖田畷の戦い)。
この一戦で島津氏の威信は九州全土に轟き、龍造寺氏もついに島津氏に従属します。
耳川から沖田畷まで――島津義久の知略と家久ら一族の奮戦によって、島津氏は九州での覇権を確固たるものにしていったのです。