【九州三国志】島津一族、内乱の時代を超えて!室町期に見る分裂と統一、そして新たなる台頭
室町時代、島津一族の絆は、静かに分裂の道を歩んでいました。
南北朝の混乱を経て、総州家と奥州家が再統一を果たしたかに見えたものの、それは一時的なものでしかなかったのです。
7代当主・島津元久が嗣子なく没すると、一族内の勢力争いが再び燃え上がり、伊集院氏や総州家との内紛が繰り広げられます。
元久の弟・島津久豊はその混乱を制し、ついに島津氏の領国を統一。
守護領国制を完成させ、島津家の中核を築き上げました。
しかし、9代忠国の代になると再び争いの波が押し寄せます。
弟・島津好久(薩州家)との対立は、幕府の介入もあり忠国の勝利に終わりますが、その代償として家中の統制は失われ、忠国自身は引退を余儀なくされました。
10代立久の時代には応仁の乱が勃発し、島津氏は東軍に属したものの、混乱は領国内で深刻化するばかりでした。
学問を奨励した11代忠昌も内乱に疲弊し、自ら命を絶つという悲劇に見舞われます。
後を継いだ忠治や忠隆も早世し、島津氏は守護大名としての地位を著しく弱体化させていきました。
室町時代後期には、一族の統制が完全に崩れ、国人や他の島津一族による闘争が激化しました。
そんな中で台頭したのが、相州家の島津貴久と薩州家の島津実久です。
貴久は守護家の養子に迎えられたものの、守護家当主・島津勝久との関係は悪化し、最終的に養子縁組は解消されます。
一方、実久は勝久を追放し、一時的に守護職を掌握しますが、これもまた島津家の長い争乱の一幕に過ぎませんでした。
やがて、貴久は武力をもって実久を退け、薩摩・大隅を掌握します。
この統一の裏には、勝久や実久に関する記録が意図的に歪められた可能性も指摘されています。
貴久の勝利によって、島津一族は新たな秩序を手に入れることとなり、その名声は戦国時代へと続いていくのです。
内乱に翻弄されつつも、島津家がその足跡を刻み続けた時代――そこには激動の中で紡がれた一族の物語が息づいています。