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【九州三国志】豊臣の時代を生き抜いて!島津義久、九州の地で見た栄光と孤独の晩年

華盛頓Webライター
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豊臣秀吉による九州平定を経て、島津氏の領地配分は新たな形となりました

義久には薩摩一国、弟の義弘には大隅一国、そして義久の甥で後継者とされた久保には日向国諸県郡が宛行われたのです。

しかし、領地の分割と新たな支配体制は島津家中に混乱をもたらし、家臣たちの反発は強まりました。

秀吉から羽柴姓を与えられた義久と義弘ですが、豊臣政権への従属は形式的なものに留まり、刀狩令の実施や兵の提供には消極的です。

このため、島津家が秀吉の意向に従順ではないとの噂が立ち、家中の軋轢も次第に深刻化していきました

秀吉の朝鮮出兵では、義久の甥・久保が病死するなど不運が続き、島津家の内部事情も混乱を極めます

検地により石高は増加しましたが、領地分配では義久が後退し、事実上の当主は義弘へと移行。

義久は「両殿体制」と呼ばれる形で名目上の権威を保ちながら、大隅富隈城で隠遁生活に入ります

しかし、その間も秀吉による朝鮮出兵への対応や家臣団の不和など、義久の頭を悩ませる問題は尽きませんでした。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、義弘が西軍に加担するも、義久は薩摩で静観を貫きました

戦後、島津家は改易の危機に直面しましたが、義久は巧みな外交交渉で徳川家康と和議を結びます

家康の上洛要求を病気や準備不足などの理由で拒み続け、2年にわたる交渉の末、家康側が譲歩を重ね、薩摩領の安堵を勝ち取ることに成功しました

この間、義久は自らの代わりに忠恒を上洛させることで、島津家の存続を守り抜いたのです。

隠居後の義久は、忠恒に当主の座を譲りつつも絶大な影響力を保持しました

しかし、忠恒とその妻で義久の娘・亀寿との関係悪化や後継者問題、琉球出兵への反対などが義久と次世代の間に不和を生みました

「三殿体制」と呼ばれる義久・義弘・忠恒それぞれの陣営は、次第に島津家を分裂させ、晩年の義久を孤独に追い込みます

慶長16年(1611年)、義久は大隅国分城にて病没しました

その辞世は「世の中の 米(よね)と水とを くみ尽くし つくしてのちは 天つ大空」

波乱の時代を生き抜き、九州を統べた男の人生は、豊臣の栄華と徳川の幕開けという激動の歴史の中で幕を閉じたのです。

Webライター

華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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