「イスラーム国」の最新の戦果発表はいかが?
2022年3月27日、イスラエルのフダイラでイスラエルの警察に対する襲撃事件が発生した。イスラエルでは、3月22日にもビウル・サブアで4人が死亡する襲撃事件が発生している。いずれも襲撃犯はイスラエル国籍を持つアラブ人なので、事件にお定まりのアラブ・イスラエル紛争や「宗教対立」とは異なる、イスラエル社会が抱える根本的な問題につながる背景がある可能性を意識したいところだ。しかし、これらの事件は世界の関心がウクライナでの戦争に集まる中、アラビア語の報道機関でもよっぽどの「キワモノ」でなければトップ記事として扱ってもらえない待遇に甘んじていた。パレスチナにおけるイスラエルの占領に対する抵抗運動が顧みられなくなり、パレスチナ側からの「暴力」はどれも「テロ」として処理される傾向が定着した中、無理のないことかもしれない。
しかし、今般の事件については、ちょっと珍しい展開があった。というのも、27日の事件について、「イスラーム国 パレスチナ」名義で「犯行声明」が出てしまったのだ。「声明」によると、特攻要員の「アイマン・イグバーリーヤ」と「ハーリド・イグバーリーヤ」が「ユダヤの警察」と交戦したとの由で、「これは不信仰者であるユダヤ人どもに時間がかかろうがかかるまいが約束が彼らに及ぶと知らしめるためだ」と主張した。その上、「イスラーム国」の自称通信社「アアマーク」の短信によると、22日の襲撃事件も同派の特攻要員「ムハンマド・アブー・カイアーン」の作戦であると位置づけられており、2件の事件が「イスラーム国」による「ユダヤ」攻撃ということになっている。「アアマーク」の短信には27日の事件の実行犯と思しき画像も添えられているので、「イスラーム国」の主張を覆すにはこれよりも確度の高い捜査情報が必要となる。これまでも指摘した通り、「イスラーム国」はイスラエルによる「パレスチナにおけるムスリム同胞や聖地に対する侵害行為」にほとんど関心を示さず、シリア、イラク、アフリカなどの僻地で政治的影響の乏しい殺戮を繰り返してきた。同派にとっては、パレスチナやエルサレムの問題は全く特別な課題ではない。「イスラーム国 パレスチナ」名義でイスラエルに対する作戦を実行したと主張する作品は、筆者の知る範囲では2017年6月16日付の作品以来である。そのくらい「イスラーム国」はイスラエルを攻撃することに関心がないということだ。
では、そんな「イスラーム国」が今般突然イスラエルを攻撃したと主張するのはなぜだろうか?「イスラーム国」はイスラエルへの攻撃脅迫をしたこともあるが、それは先代の自称「カリフ」の時代の2021年1月末に出回った報道官の演説である。しかも、この演説に共鳴した攻撃は先代の自称「カリフ」の存命中は1件も発生しなかった。自称「カリフ」の代替わりに伴い、何か世論に訴えかける作戦が必要だという事情があることも考えられるが、アメリカやイスラエルの権益に対する攻撃は現在の自称「カリフ」やその仲間たちの生命への危険を高めることにもつながりかねないので、「存続」することが自己目的化している「イスラーム国」にとってはかなり致命傷にもなりかねない決定に違いない。しかも、現在の世界の世論や報道の関心はウクライナでの戦争に向けられている。欧米の政府や報道機関が唱道する「専制との戦い」や「人道」なんてまるっきり信じていないように見えるアラブ諸国やムスリムにとっても、ウクライナでの戦争は身近な経済危機・食料の供給不安の問題であり、それに比べれば「イスラーム国」の「戦果」はニュースとしての価値は低いだろう。今般の「戦果」が「イスラーム国」が期待する政治・社会的反響を呼ぶかはおぼつかない。
とはいえ、「イスラーム国」による「ユダヤへの攻撃」には、ちゃんと意義があるということはできる。しかしその意義は、ユダヤに対するイスラームの戦いでもなければ、イスラエルで差別や抑圧にさらされるムスリムの抵抗でもない。かつてアラブ諸国によるパレスチナの同胞救援、次いでパレスチナ人民自身による反占領解放闘争だったはずのパレスチナにおける衝突・抵抗・戦闘は、「テロとの戦い」を経て「何の落ち度もないイスラエル」に対する「不当で狂信的な暴力」へと貶められている。今般、「イスラーム国」がそうした「暴力」の当事者であると主張したことにより、この傾向にますます拍車がかかるだろう。既に、2020年以来バハレーン、UAE、モロッコ、スーダンのようなアラブ諸国も、パレスチナにおける占領・差別・抑圧の問題を「なかったこと」にしてイスラエルとの関係を正常化した。「イスラーム国」の行動は、異教徒による侵略からイスラーム共同体を解放する闘いとしてではなく、パレスチナ人もパレスチナ問題も「なかったこと」にしてイスラエルに対する攻撃や暴力は全て「テロ」として処理する作業を正当化する事由の一つとして位置付けられることだろう。