【鎌倉殿の13人】の御家人たちのその後と子孫たちはどうなったのか??
鎌倉殿の13人は2代目将軍・源頼家を補佐する13人の合議衆の事をいいます。
しかし御家人同士の権力争いで2年程で崩壊し、結果的に北条氏が実権を握りました。今回は大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で登場した13人のその後と子孫たちについて紹介します。少し長いですがお付き合いください。
北条義時の子孫は後北条氏に!?
次男で分家の立場だった義時ですが、幕府の権力を掌握し、その家系が北条得宗家と呼ばれ代々執権を輩出しています。
鎌倉幕府滅亡時に北条高時と一族が共に滅んだと思われましたが、遺児の時行が北条再興の兵を挙げ、足利尊氏に戦いを挑みますが捕らえられ処刑されます。
しかし、時行の息子が生き残り北条の名を捨て、横井と姓を変えたとも。時が過ぎ、その血筋の女性が北条氏綱の正室となり北条氏康が誕生したとも言われています。
智謀・毛利元就のご先祖様・大江広元
源頼朝のブレーンとして、頼朝の死後は北条氏に味方する事で幕府の中枢まで上り詰めた大江広元。彼の子孫がタイトルにある通り毛利元就を輩出しています。
安芸国吉田荘の地頭職を与えられ繁栄し各地に広がりますが、権力争いで多くが討ち死にします。しかし、その生き残りが安芸毛利氏となり、やがて中国地方の大半を有する毛利元就の時代へと続いていくのでした。
三善康信の子孫は大友・毛利氏の家臣
鎌倉幕府で寺社統制や裁判にあたる問注所の執事を務めたのが三善康信。承久の乱では積極的に御家人たちを鼓舞するなど北条氏の為に尽くしました。嫡男・康俊は父の跡を継ぎ問注所の執事を務めています。やがて子孫が九州へ行くと、代々世襲してきた【問注所】を姓にしました。その後の問注所氏は大友から始まり、立花氏、加藤氏と主君を変えて藩士として江戸時代を生き抜きました。
中原親能は九州名族のご先祖様!?
大江広元の兄である中原親能は頼朝の側近として重用されました。
中原親能の子孫たちは、主に九州地方で繁栄していきます。
一番の出世頭は親能の養子だった能直。血は繋がっていなかったが、親能は実の子以上に愛してその将来を期待しました。能直は相模国大友郷を領した事で【大友】姓に改め、父・親能が九州に持っていた領地の大半を親能が受け継ぎます。
そして、北九州を基盤に勢力を蓄えた大友氏は名族として乱世を生きました。
三浦氏の子孫は北条早雲によって滅亡
頼朝挙兵以来の重臣の一人が三浦義澄。頼朝死後は合議制メンバーとして重責を果たしますが高齢で程なくして亡くなりました。跡を継いだ義村は、幕府の評定衆になり御家人の中でも抜きんでた地位を確立します。
ところが義村の子・泰村の代になると、三浦氏の権力拡大を恐れた北条氏によって粛清されていくことになります。これにより一族郎党自害し、名族・三浦氏は滅亡しました。
三浦氏が復活したのは鎌倉時代が終わってからで、足利尊氏に味方した三浦高継は、戦功を重ね念願だった相模国三浦の地を得ると関東の動乱に乗じて勢力を拡大し、相模随一の勢力としての基盤を作ります。
しかし、三浦義同の時代に数年に渡り北条早雲と抗争を繰り広げますが、最後は追い詰められ相模三浦氏は滅亡しました。
八田知家の子孫は戦国最弱・小田氏治
頼朝死後は合議衆の一人として幕府を支え、北条時政を敵視しながらも生き残りました。その知家の出身は関東【宇都宮氏】で兄が家を継ぎ、知家は八田姓を名乗り分家をした形になります。
知家の血筋から様々な家が分家していますが、嫡男から続く家が【小田】を名乗りました。鎌倉時代から南北朝時代を経て戦国時代をたくましく生き抜き、やがて【戦国最弱武将】と呼ばれる小田氏治を輩出します。氏治の子孫たちはその後も越前松平氏に仕え江戸時代を生きました。
和田義盛の子孫は織田信長の宿老に
鎌倉幕府では侍所別当として君臨していた和田義盛。晩年は北条義時と敵対し反乱を起こし和田一族は粛清されました。
孫の朝盛は生き延びて安房国へ逃れています。この時に【佐久間】を名乗り尾張に移り住みました。そして、時が過ぎ、その子孫の佐久間信盛が織田氏に仕え宿老となりました。晩年は織田家を追放されますが、息子・信栄は恩赦され織田信雄に仕えています。その後の佐久間氏は、江戸幕府の旗本として幕末まで続きました。
北条時政に粛清された比企能員
鎌倉殿の2代目の外戚として北条氏と並び権勢を誇っていたのが比企氏。北条時政から謀反の疑いをかけられ、時政の館で申し開きをしみノコノコと行ってしまい、あっけなく討ち取られてしまいます。一族はことごとく自害し、だれも許されることはなく、まさに完膚なきまでに叩かれ歴史から姿を消しました。
ところが、戦国時代に突然比企を名乗る人物が登場し、後北条氏に仕える家臣になっています。しかし、後北条氏が滅亡すると同じくして比企氏も表舞台から姿を消しました。
安達盛長の子孫は徐々に姿を消す
合議制の一人に選ばれますがほどなくして亡くなります。
残された一族たちは幕府の要職に就き信頼されていました。また、北条氏と外戚関係を結び御家人の中でも最有力の立場となります。
ところが安達泰盛の時代に強大化を恐れた北条貞時の命により粛清されてしまいます。幼かった時顕は許され、後に外戚として幕府の政治に関与します。しかし、鎌倉幕府滅亡と共に安達一族も歴史から姿を消しました。
足立遠元の子孫は丹波で400年続く
足立遠元は武勇と行政の才能を併せ持つ御家人で、合議メンバーの中でも思慮深い人物として伝えられていました。遠元が亡くなった後は、長男・元春が跡を継ぎ幕府に仕えた以降の記録がハッキリしません。
遠元の孫にあたる人物が地頭として丹波国へ赴いています。幕府内の権力争いには関与せず地道に力を蓄え、南北朝時代には南朝側として勇猛果敢に戦っています。
戦国時代には丹波国衆としてその血を繋げていましたが、ところが1579年に但馬国から羽柴秀長の侵攻を受けてしまいます。当主の足立光永を始め一族の多くは自害しますが、生き残った者たちが農民としてひっそりと生き延びたようです。
梶原景時は粛清されるも子孫は繁栄
鎌倉幕府成立後も存在感を表し、宿老としての地位を確固たるものにしました。しかし、強権的な態度から多くの御家人から非難を浴び失脚しました。そして、京都へ落ち延びる途中で暗殺されてしまいます。この時に、息子を始め一族のほとんどが自害したと言います。しかし、梶原氏が滅亡したわけではなく、孫にあたる景継は再び幕政に復帰し、その三男・景茂は西日本に移住して、その子孫たちは機内や四国へ広がっていきました。
室町時代には足利将軍に仕える者と関東の鎌倉公方に仕える一族に分かれます。
二階堂行政の子孫は有名な麦焼酎!?
公家出身の二階堂行政は政所の執事を務めた官僚です。頼朝とは血縁関係があり行政の娘が北条義時の側室になった事から、二階堂氏は関東を中心に一大勢力を築きました。
鎌倉幕府滅亡の時に多くの一族が運命を共にしましたが、全国に散らばった二階堂一族は各地で活躍をしています。戦国大名・須賀川の二階堂氏は、伊達と蘆名の間に挟まれ生き残りを図りますが、1589年に伊達政宗の猛攻を受け須賀川城が落城し滅亡しました。
多くの二階堂氏は戦国乱世に飲み込まれ没落していくのですが、鎌倉時代後期に薩摩へ移った一族が島津氏の家臣となり、江戸時代を通じて薩摩藩士として続きました。大分麦焼酎で有名な二階堂がありますが、やはり鎌倉時代に九州へ移ってきた一族の末裔だという事です。
最後に、合議衆の一人で北条義時の父・時政は失脚しましたが、家は義時の次男が家を継いでいます。しかし、たびたび得宗家に反抗的な態度を示し、謀反を企て1272年の2月騒動まで引きずっていくことになります。
戦国時代に活躍した多くの武将達も元をたどれば、13人の御家人たちに繋がっていたりします。後北条氏と北条得宗家の意外な繋がりと大分麦焼酎と二階堂氏の関係は驚きです。