【その後の鎌倉殿の13人】裁判するのも命懸け?武田氏はなぜ北条泰時に復讐しようとしたのか?
仁治2年(1241)3月25日、有力御家人・海野幸氏と武田光蓮が相論となりました。上野国三原荘と信濃国長倉保の境界をめぐる紛争(境相論)が勃発していたからです。鎌倉幕府(時の執権は北条泰時)は、海野氏側の言い分が理に叶っているとして、御成敗式目の条文に従い、海野幸氏に有利な判決を下します。ところがこの判決を怨みに思ったのが、敗れた武田光蓮でした。光蓮は、一族や仲間と語らって、泰時に復讐しようとしているとの「巷説」(世間の噂)があったと言います(鎌倉時代後期の歴史書『吾妻鏡』)。しかし、泰時は噂に屈しませんでした。「かつて、和田義盛が謀反を企てた時(1213年)、囚人・和田胤長の赦免を求めて、和田一族が列参したが、幕府は赦免しなかった。無私の先例は既にこのように存在するのだ」と周囲に語り、判決を覆そうとはしなかったのです。武田光蓮にこの泰時の意向が伝わったのでしょうか。4月16日になって、光蓮は泰時に詫びを入れています。しかも「子々孫々に至るまで悪事を企てません」という起請文(誓約書)付きで(この起請文は、平盛綱から泰時に渡されました)。この起請文は、評定の席で、出席者に回覧されたといいます。一同も起請文の内容に納得したとのこと。光蓮が本当に泰時を襲撃しようとしていたか否かは不明ですが、荒々しい気性の武士同士の紛争を裁判により解決することは、裁く側もある意味、命懸けだったと言えるでしょう。