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知床の海はいつも冷たい 観光船の悲劇を繰り返さないために

斎藤秀俊水難学者/工学者 長岡技術科学大学大学院教授
作業台船に載せられて網走港に着岸したカズ・ワン(筆者撮影)

 知床の海は常に冷たいのです。いくら救助体制を充実させても、水が冷たければ、海難事故から生還することはきわめて難しい。知床観光船の悲劇を繰り返さないためにどのような議論が行われているのでしょうか。

現場にて

 筆者は5月26日のカズ・ワン引き揚げ、同27日の網走港入港にあわせて、事故の概要を調査するために、知床の現場に入りました。

カズワン引き揚げ現場

 5月26日は、斜里町ウトロ西にあるオシンコシンの滝の駐車場から作業台船「海進」によるカズワンの引き揚げの様子を見守りました。引き揚げ現場はオシンコシンの滝からおよそ10 km沖合の海上です。筆者の現場到着時間はまだ日暮れまで2時間ほどでした。晴れて気温も比較的高く、風は無風、海面も波がほとんど見られない状況でした。

 この海だけ見ていると、穏やかな何も問題のない海で淡々と引き揚げ作業が進んでいるという様子でした。動画1をご覧ください。

動画1 カズ・ワンの引き揚げの様子(筆者撮影、2分29秒)

 テレビでご覧いただいていた方々には、作業台船の動きはほとんど感じられなかったと思います。オシンコシンの滝からカメラの最大ズームで狙いましたら、いくつかのことに気が付きました。

(1) 作業台船が少しずつ移動していること

 18時16分くらいから2分30秒ほどの間の動画ですが、作業台船が少しずつ右手に動いている様子がわかります。この時間はカズ・ワンが台船の直下の数十mくらいの所にまで浮上していたと思われます。つまり引き揚げの最終段階に差し掛かっていたと思われます。台船の位置を厳密に固定する必要のある時間軸ではなくなっていたので、潮の流れに身を任せていたかもしれません。ここを流れる宗谷暖流は画面の左から右に流れています。

(2)クレーンの位置が少しずつ移動していること

 まさに引き揚げの最終段階であるかのように動いています。作業台船の側面に抱きかかえるような位置にカズ・ワンの船体を合わせるためでしょうか、クレーンの位置を少しずつ、左から時計回りで右に向かい回転させているように見えます。

 総合してみると、数分でクレーンの動く距離くらいには作業台船が移動しているので、クレーン作業は海流の影響を少なからず受けていたと推察されます。夕暮れギリギリまで、しかも無風で波もほとんどない、この瞬間を狙って、むずかしいミッションに取り組んでいるように見えました。

ウトロ漁港

 27日朝からウトロ漁港を訪れました。晴れで風が弱く、海面は穏やかでした。時折南風が吹き、暖かな気候の中を調査することができました。多くの漁船や観光船が停泊していました。

 図1にウトロ漁港の様子を示します。ウミネコでしょうか、多くの海鳥が海面に浮いています。この風景だけ見ていると、海が冷たいとはとても思えません。そこで、動画2に示すように漁港の海に直接手を入れてみました。

図1 海水温8度でも海に浮かぶ海鳥(筆者撮影)
図1 海水温8度でも海に浮かぶ海鳥(筆者撮影)

動画2 ウトロ漁港で水温8度の海に手を入れてみた(筆者同行スタッフ撮影、1分50秒)

 カズ・ワンの沈没から1か月以上が経過しています。水温はおよそ8度です。まだまだ海水が冷たい時期です。

 手を海につけても、冷たさで1分持ちません。5秒以内に冷たさが伝わってきます。10秒で手にしびれが走ってきます。15秒を過ぎたあたりから、徐々に手を外に出したくなってきました。30秒に到達すると、しびれがかなり強くなっています。30秒を過ぎると、しびれから手の動きが鈍くなってきました。40秒あたりから、手が冷え切り、指先の「冷たい」という感覚がなくなってきます。55秒でしびれ感や痛さによって耐えられなくなり、1分で手を海から出さざるを得なくなりました。

 海から出した手は、真っ赤になり腫れ上がっていました。動きはかなり鈍くなりました。ただ、太陽に照らされると急速にしびれ感がとれて正常に戻りました。冷たい海であればあるほど、一刻も早く海から上がることは大変重要なことです。

 カズ・ワンが沈没した当時の海水温は2度から3度の間でした。事故の当日、海に転落した方々はきわめて厳しい状況に置かれたものと推測されます。

知床の海はいつも冷たい

 水難学会では、これまで冷水でのヒトの動きについて実験して、その結果をまとめています。

 いつも報道でお話ししている通り、水温7度以下ではすぐに身体が冷えて動かなくなります。特に防寒の手袋をしていなければ、指先が動かなくなります。何かにつかまるとか握るとかができなくなります。梯子は上がれなくなります。投げられたロープにつかまることができません。そして船の上から手が差し出され「この手につかまれ」と言われても、腕を水面から出してその手に近づけることすら不可能となります。

 水温7度以上、できれば10度以上、それなら梯子を上ったり、その梯子まで10 m程度であればそこまで泳いだりすることができます。数分から数十分は身体を動かすことができます。ロープにつかまることもできます。ただ、時間とともに指先は動かなくなります。

 水温17度以上あれば、救命胴衣の浮力によりじっと救助を待つことができます。救助までの時間が3時間くらいになっても、生還する可能性が高くなります。やはり、海難事故において水温はとても重要な要素になるのです。

 では知床半島の周辺の海水温は年間を通じてどうかというと、17度を超えるのは夏のごく限られた期間です。一年を通じて冷たいのが知床の海の宿命なのです。

スライダー付き救命いかだ義務化へ?

 北海道・知床半島沖の観光船「KAZU I(カズ・ワン)」の沈没事故を受け、国土交通省は27日、船から海中に落下せず避難できるスライダー(滑り台)付きの「救命いかだ」を新たに開発する方針を明らかにした。寒冷地を航行する小型旅客船を対象に搭載を義務付ける。(産経新聞 5/27(金) 21:30配信

 水温7度以下の海はざらで、北日本の各地の沿岸では冬の海の水温は7度を下回ることが普通です。観光船ばかりでなく、漁船やプレジャーボートの冬の海難事故では、救助が間に合わず冷たい海の中に投げ出された方々が命を落としています。最近では、岩手県普代村の太田名部漁港付近で転覆した漁船の事故をあげることができます。

【参考】遊漁船海難事故の原因?プロペラ点検口を閉めてなかった

 そういった中で、「スライダー付きの救命いかだ」を新たに開発する方針は画期的で、スライダーがあることによって冷水に浸かることなく、沈みゆく船から救命いかだに乗り移ることが容易になります。

 課題として、小型船に搭載することのできる小型軽量な製品を開発すること、操作や運用について十分な知識を船長や甲板員に求めること、さらに設置に対してコストを求めることが挙げられます。

小型軽量な製品の開発

 現行の中型船や大型船に搭載される救命いかだは図2に示すようにそれなりの大きさや重量です。図2のタイプの救命いかだで定員が25名ですから、定員が65名のカズ・ワンなら3台は必要になります。それに加えて膨張式スライダーも同じ容器に搭載することになると、かなり大きく重くなることでしょう。

 そのため、小型船に合わせて、しかも海岸から数km程度の沿岸を想定して、全体に軽くて薄めの素材を使用することは想定できます。

図2 救命いかだの例(筆者撮影)
図2 救命いかだの例(筆者撮影)

船長等の訓練

 現在、大学や高専の船員養成学部(学科)では、シーサバイバル訓練と言って救命いかだへの乗り込みを体験します。図3に示すように、この現行の訓練では、海に投げ出された後、一度海中に浮いて、救命いかだに乗り込むことを想定しています。

図3 シーサバイバル訓練の様子(東京海洋大学 田村祐司准教授提供)
図3 シーサバイバル訓練の様子(東京海洋大学 田村祐司准教授提供)

 スライダー付きの救命いかだを開発することによって、こういった教育内容が変わるでしょうし、小型船であっても旅客船の船長や甲板員は実技を伴った教育を受けなければならなくなる可能性があります。

設置のコスト

 新製品の開発コストは膨大な額になる可能性があります。これを国費で負担するのか、メーカーが負担するのか。メーカーが負担するとすると、そのコストの回収のために、ある一部のメーカーだけに販売が許されるなどの、専売となる可能性があります。さらに、救命いかだの購入や維持管理のコストに耐えられる観光船運航会社がどれだけいるか。そういったことを総合して考えていかないとなりません。

まだまだ続く

 毎日のようにカズ・ワンに関する情報がアップデートされています。このところの話題は、船底の左舷側にある「四角い穴」の存在です。

 繊維強化プラスチック(FRP)の破壊において、四角い穴を作るように、まっすぐな切断面ができることなど、沈没後の着底時など、自然のものに当たった時の衝撃では考えられません。

 このような穴が開くのは、四角い板のようなものが長い時間をかけて押し当てられて、かなり高い静的荷重が加わり、座屈的に破壊が進んだというように考えられます。ということは、船を海面に下ろす前の陸置状態ですでに穴が開いていたことも十分に考えられます。

 悲劇を繰り返さないために各方面で議論が始まりましたが、真実が明らかになるまで、まだまだ時間がかかりそうです。

水難学者/工学者 長岡技術科学大学大学院教授

ういてまて。救助技術がどんなに優れていても、要救助者が浮いて呼吸を確保できなければ水難からの生還は難しい。要救助側の命を守る考え方が「ういてまて」です。浮き輪を使おうが救命胴衣を着装してようが単純な背浮きであろうが、浮いて呼吸を確保し救助を待てた人が水難事故から生還できます。水難学者であると同時に工学者(材料工学)です。水難事故・偽装事件の解析実績多数。風呂から海まで水や雪氷にまつわる事故・事件、津波大雨災害、船舶事故、工学的要素があればなおさらのこのような話題を実験・現場第一主義に徹し提供していきます。オーサー大賞2021受賞。講演会・取材承ります。連絡先 jimu@uitemate.jp

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