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【大河ドラマ鎌倉殿の13人】3代執権・北条泰時が生まれた寿永2年とはどのような年であったのか?

濱田浩一郎歴史家・作家

嘉禄元年(1225)7月11日、北条政子は69歳でこの世を去ります。執権・北条泰時は、伯母・政子の死を悲しんだことでしょう。しかし、いつまでも悲しんでいるわけにもいきません。泰時は鎌倉幕府の執権としての務めがあるのですから。

政子死去後の歴史を語る前に、泰時の前半生を振り返っておきましょう。「その後の鎌倉殿の13人」は、泰時の「物語」でもあるからです。泰時の前半生は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも描かれましたが、復習の積もりで、もう1度見ていくことは、泰時の生涯を考える上で、無意味ではないと思います。

さて、泰時が生まれたのは、寿永2年(1183)のことです。寿永2年の前半と言えば、都には未だ平氏あり。北陸には木曽義仲あり。そして、関東には源頼朝ありという現状で、それは「三国時代」を思わせるものでした。

この年の5月、平氏は木曽義仲を打倒せんと、北陸に進軍しますが、越中国砺波山(富山県)において、逆に義仲に敗れてしまいます。7月下旬には義仲は上洛。平氏は幼い安徳天皇を擁し、西海に逃れます(平氏都落ち)。

都に入った義仲ですが、後白河院と対立。院は、鎌倉の頼朝に上洛して、義仲を討つように命じます。しかし、頼朝は自らは都に上らず、異母弟の源範頼と源義経軍を西進させます。頼朝の2人の兄弟は、寿永3年(1184)正月下旬には、義仲を討ち取るのです。

泰時が生まれた1183年は、平氏が義仲を討たんとして敗れ、最終的には都落ちするという時代が大きく動いた年でもあったのです。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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