三連休、どこ行く? 女性の「ひとり温泉」に超人気宿でおこもり――。≪読書と温泉宿のいい関係≫
土地を知りたい ライブラリーの有無は大切である
ライブラリーもあると嬉しい。
私が読書が愉しくなった空間は大分県の由布院「玉の湯」のロビーラウンジだ。
自然のままの雑木林が広がり、テラスには白いテーブルセットが置かれ、テーブルには色鮮やかな季節の小花が飾られている。暖炉もある。由布院は高原なので、冬に雪が積もることがあり、春先の夜も肌寒かったりする。この暖炉の前でクッキーとコーヒーを片手に活字を眺める至福。ぱちぱちと木がはぜる音を聞きながら、暖炉からのじんわりとしたやわらかい熱に包まれると、読書どころか眠気に誘われることも、ままある。
近年、好環境で本が読める宿が多数できているが、心奪われたのは長野県蓼科温泉の「蓼科親湯」だ。オーナーの柳澤一成社長の読書好きから始まっていて、館内の蔵書は全3万冊というから、驚く。もちろん柳澤社長の蔵書も含まれているが、単なる社長の個人的趣味ではない。
4代目となる柳澤社長は旅館の事業承継だけでなく、蓼科が生み出し、積み上げてきた文化的価値を受け継ごうという意思がある。
そのため柳原白蓮や伊藤左千夫などの書が各所に掲示され、ガラスのショーケースには明治、大正、昭和初期の宿帳が収められていて、宿の歴史が示されている。
太宰治、幸田文といった蓼科にゆかりがある文人10人をモチーフにした客室もあり、私は大好きな幸田文の部屋に泊まった。名著『闘』が飾ってあり、幸田文全集も並ぶ。
蓼科で執筆された作品は一般的には『蓼科文学』と言われるが、蓼科では『山浦(やまうら)文学』と呼ばれている。この山浦文学に惹かれて、晩年の多くの時を過ごし、ここで脚本を書いた小津安二郎もまた、蓼科親湯温泉の常連だった。
蓼科親湯温泉(宿名)は、土地の歴史を知ることができる唯一の場所であり、地域の“顔”の役割を果たす、意義深い宿である。
旅先のライブラリーで最も欲しいのは郷土本だ。その土地の人の知恵が詰まった郷土本は、旅を豊かに導いてくれる。
湯ヶ島温泉のことを記した『天城の山の物語』(俳句研究社)を初めて読んだのは、湯ヶ島の温泉宿「白壁」に宿泊した晩のこと。
「湯ヶ島を知るのなら、この1冊が参考になるわよ」と、女将に貸していただき、名物わさび鍋を満喫した晩に読みふけると、天城峠の麓でわさびを名産品にした、ひとりの男の成功物語に愛おしさが込み上げ、わさびを土産に購入した。
湯ヶ島温泉でもうひとつ。
文豪・井上靖の『しろばんば』は、彼が湯ヶ島で幼少期を過ごした思い出を綴った作品だ。舞台は昭和初期の湯ヶ島温泉。湯ヶ島集落の入り口には、都会からの客を乗せた馬車が停車し、井上靖をはじめとする子供たちは、それを見に行く。観光客から都会の空気を感じるためだった。子供たちは停車場で仲良くなれそうな客を探して宿まで案内し、都会の話を聞かせてもらう。その話がいかに魅力的だったかを、井上靖は記している。
そんな『しろばんば』の舞台は、いまも湯ヶ島に文学散歩のルートとして残っている。当時とあまり変わっていないであろう湯ヶ島の町を歩くと、昭和初期にタイムスリップしたようだ。
「白壁荘」で『しろばんば』を読んで以来、湯ヶ島温泉へ向かう道中、東京駅発の修善寺行き「踊り子」号の車内では『しろばんば』を読むようにしている。すると現地に到着した頃は、物語の風景が広がってくるのだ。
※この記事は2024年9月6日に発売された自著『ひとり温泉 おいしいごはん』(河出文庫)から抜粋し転載しています。