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愛する家族の激励で来日 現役引退した元小結・臥牙丸が明かす亡き両親への思い

飯塚さきスポーツライター
元小結・臥牙丸(筆者撮影/取材協力:Riverside Ryogoku)

昨年11月、惜しまれながら現役を引退した、ジョージア出身の元小結・臥牙丸。大きな体を生かした豪快な取り口と、なんとも愛嬌にあふれる明るいキャラクターで、多くのファンに愛されてきた。引退後のいまも日本に残り、次なる道を模索している。そんな彼にインタビューを行い、角界の思い出や家族への愛、そして今後の活動などについて、話を伺った。

思い出の土俵を振り返る

――およそ15年にわたる現役生活、本当にお疲れ様でした。振り返ってみて、一番印象に残っているのはどの場所ですか。

「新三役を決めた2012年の1月場所。(西前頭)10枚目で本当は三役には上がれないところだったけど、12勝3敗で上がれて、うれしかった場所でした。覚えているのは、台風が来ていて、僕の傘が飛ばされて、その写真が取り上げられたことです」

――それはまた印象的ですね。いままでで特に覚えている一番は。

「大関の把瑠都関に勝ったのが一番大きかった。稽古場でも勝ったことのない相手だったので、本場所で初めて当たって勝ったのはうれしかったです。その場所(2011年9月場所)の初日は負けたけど、2日目からは連勝して、調子がいいなと思いながら取っていました」

――苦手だった力士はどなたですか。

「豊真将関です。とても苦手で、12連敗くらいしています(実際は9)。とても取りづらかった。押しが強くて、でも四つでも取れるし、脇の締め方も足腰も強くて、体がぶれない。僕は自分の体で押して、相手の体勢が崩れて勝てることが多かったんですが、彼の場合は崩れることがなく、最後まで攻められなくて負けていました。もちろん、横綱・白鵬は別。絶対勝てると思わなかった。ただ、同じ前頭でも、それくらい勝てなかったのは豊真将関でした」

――逆に得意だったのは。

「四つ相撲の相手のほうがうれしかった。頭じゃなくて胸で当たってくる四つ相撲の力士に対しては、僕は体が大きかったから、相手に止められない自信があったんです。自分の体が生かせればいいなって」

――目指していたのは、体の大きさを生かした相撲ですね。

「ジョージアではずっと柔道をやっていたので、日本に来たときには組んで相撲が取りたかったけど、組むとすぐ投げにいっていたみたいなんです。そうしたら親方が『それだとケガしやすいから、頭で当たって、押し相撲でいこう』って。大きな体を武器に、脇を締めて当たってどんどん押していけば、関取に上がれるよと、僕の体を見て的確なアドバイスをしてくれました」

大きな体を生かした豪快な相撲で土俵を沸かせた現役時代
大きな体を生かした豪快な相撲で土俵を沸かせた現役時代写真:長田洋平/アフロスポーツ

背中を押してくれたのは、故郷の亡き両親

――6歳から柔道に取り組んでいたそうですが、日本で相撲をやろうと思ったきっかけはなんだったのでしょうか。

「当時、ジョージア出身力士には黒海がいたんですが、ジョージアでは相撲はメジャーではなくて、大会はあってもやる人が少なかったから、とにかく体の大きい人を探していたみたい。僕は、たまたま行ったジムで声をかけられた。まさか日本に行ってそのまま残る気持ちはなかったけど、僕も日本に行ってみたかったから、行くと言いました」

――日本に行ってみたい気持ちがあったのは、やはり柔道経験があったからですか。

「そう。柔道を愛していました。だから日本があこがれだった。嘉納治五郎をすごい人だなあと思っていたし、日本の選手も素晴らしかった。だからこそ、相撲でここまで来られるとは考えたことがなかったですね。

 日本に来たら、まずは四股の踏み方やすり足を学ぶために、日本大学に預かられるような形になったけど、そのままプロに行かないかと声をかけられて、断れなくて…。まだ18歳だし、本当は寂しくて帰りたかった。でもわかりましたと、2005年8月に部屋に入って、でも親方にお願いして一回帰してもらったんです。10月にまた日本に戻ってきて、11月場所で前相撲を取りました」

――親元から離れて、それは寂しいですよね…。

「すごく寂しかった。当時のジョージアにはアジア人が少なくて、ジャッキー・チェンとか映画でしかアジア人を見たことがないし、直接会ったことも話したこともなかったんです。日本に来たら僕だけ顔も違う、僕だけがみんなと違う人っていう不安があった。でも、親に相談したら『それが、神様から広げてもらったあなたの道なんじゃないかな』って言われたんです。いまは寂しいけど、チャンスは二度とあるかわからないから、逃さないで、寂しさを我慢して頑張っておいでって。いまはFaceTimeやLINEがあるからすぐ連絡できるけど、当時はまだガラケーしかないでしょう。親から2週間も離れたことがなかったし、お母さんはすごく泣いて、僕もめっちゃ泣いていた」

――ご両親は、寂しさを押し殺して、背中を押してくださったんですね。

「でも、日本に来て1年くらいで、お父さんが交通事故で突然亡くなりました。僕にはお兄さんがいるんですが、彼は自分がお父さんの代わりになったような気持ちでいました。ガラケーで電話してきては僕の寂しさを和らげようとしてくれたり、お父さんがいままでしてくれたことを代わりにしてくれたり、すごくつらかったと思うのに、応援してくれた。お母さんも、病気で亡くなったんですが、お兄さんが最期まで面倒を見て、すごく頑張ってくれていました」

――早くにご両親を亡くされたこと、とてもつらかったと思います。しかし、素敵なお兄さんがいてくださったんですね。

「本当によかった。いいお兄さんだなあと思います。お父さんが亡くなってから、お母さんを一人にさせたくなくて、僕がお兄さんに『早く結婚して!』とお願いして。そしたらすぐ1年くらいで結婚して、2年目で子どもが生まれて、上の子はもう11歳。お兄さんには感謝です。

 僕は、お父さんに頑張っている姿を見せたかった悔しさはありますが、お母さんが病気になってからも、自分の白星でお母さんが泣いているのを見たら、すごく感動して僕も泣いた。自分はまだ子どもはいないけど、息子が頑張っている姿を見るのは何よりも幸せだろうなって思いますよね。やっぱり、一番大事なのは家族です」

――愛のあふれる素敵なご家族ですね。だからこそ、関取のような心優しい人が育ったんだなあと、すごく腑に落ちます。

「逆に、日本人は仕事に集中して、親や家族にあまり会いに行けない人が多い気がするけど、絶対仕事より親。会いには行けなくても、週に1回でもいいから、連絡してあげてほしい。僕は両親がもういないし、亡くなった後に後悔している。でも、苦労して乗り越えたからいまがあるので、頑張ってよかったなと思いますね」

後編へ続く)

スポーツライター

1989(平成元)年生まれ、さいたま市出身。早稲田大学国際教養学部卒業。ベースボール・マガジン社に勤務後、2018年に独立。フリーのスポーツライターとして『相撲』(同社)、『大相撲ジャーナル』(アプリスタイル)などで執筆中。2019年ラグビーワールドカップでは、アメリカ代表チーム通訳として1カ月間帯同した。著書『日本で力士になるということ 外国出身力士の魂』、構成・インタビューを担当した横綱・照ノ富士の著書『奈落の底から見上げた明日』が発売中。

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