自民から出て自民を壊した「大阪維新の会」――改革するベンチャー与党というニュータイプ
国政では「日本維新の会」の動向に注目が集まる。「旧民主党が政権をとる前夜に似てきた」「所詮は吉村さん(大阪府知事)の人気」「関西だけ」などと論評されるが、いずれも一面をみた印象論でしかない。
筆者は2010年の「大阪維新の会」の発足時――いわば赤ん坊の頃から――成長ぶりをずっと見てきた親戚のおじさん的存在である。2011年6~12月に発足直後の大阪維新の会の政策特別顧問を務め、現在は大阪府および大阪市の特別顧問を務める。
そんな私に言わせると、維新の会は「改革型与党」、つまり「安定的な政権運営をしながら改革を進める保守系政党」である。当初は少人数のベンチャー政党だったが、大阪府知事と大阪市長のポストを得て、各種改革を断行して住民に支持され、府議会でも市議会でも議席を増やし国政与党の自民党を少数野党に追いやるほどの存在になった。つまり、大阪では維新が国政における「与党自民党」と完璧に入れ替わった(大阪市議会の議席は維新46、自民15で、府議会は維新55、自民7)。
●維新の本質は改革に挑む自民党
さて、「日本維新の会」を理解するには、母体の「大阪維新の会」の創業の歴史を知らなければならない。大阪の自民党は2010年に、松井一郎氏らの改革派(自治体経営再建&分権改革推進派)とその他の守旧派(既得権益容認&中央集権依存派)に分裂した。やがて前者は自民を離脱して「大阪維新の会」を作った。その後、維新は橋下徹氏を行政と対外発信の司令塔に、松井氏を政治の司令塔に据えて、大阪で与党の地位を保ち、改革を進めてきた。
与党は行政をつかさどり、多数派の支持を得ている。だから与党が本気で改革に挑めば大きなことができる。国政・自民の例では中曽根政権の国鉄や電電公社の民営化、橋本政権の省庁再編、小泉政権の郵政民営化など大玉ぞろいだ。
大阪でも維新は、大阪市役所の長年の労使癒着からの決別、関西空港と伊丹空港の統合・民営化(国による改革を主導)、市営地下鉄・バスの民営化、府立と市立の大学統合、子育て・教育予算の大幅増など、この12年間に大玉改革を続々と実現させた。
こうした改革の実績のもと、2023年春の統一地方選挙では、維新は大阪府市の両議会で過半数の議席を得た。また大阪の街の姿の変貌ぶりを知る奈良県民は自民ではなく維新の知事を、和歌山の有権者も補欠選挙で維新を国会議員に選んだ。
つまり維新は大阪においては、国政におけるかつての小泉政権のような存在である。旧民主党になぞらえるのは全くの間違いだ。そもそも維新は保守政党であり労組とは連携しない。また大阪府市の政権を奪取したあと、民主党のように政権運営に失敗してもいない。
●橋下知事誕生から2年後に発足
地域政党「大阪維新の会」は、2010年4月19日に大阪府議団を中心に約30人の議員が集まって発足した。これは橋下氏が知事に当選した約2年後のことである。しばしば「橋下氏は維新の会から出て知事になった」と誤解されるが、そうではない。橋下氏は、2008年の知事選では、府議会議員だった松井(元府知事、前大阪市長)・浅田均(元府議、現参議院議員)の両氏が所属していた大阪の自民党と公明党の推薦で当選した。その2年後に橋下・松井・浅田の3人が合流して維新の会ができた。
発足時の代表には橋下知事が、幹事長には松井議員が、そして政調会長には浅田議員が就任した。立ち上げに際し作成した党の綱領と「大阪再生マスタープラン」には、「府市統合」「広域行政の一元化」など、その後に今日まで取り組んだテーマがほとんど書かれていた。
結党1年後の2011年4月に統一地方選挙があった。維新の会は大阪府議会で過半数を獲得し、大阪市議会と堺市議会では過半数に届かなかったものの第一党に躍進した。また同年11月の大阪府知事と大阪市長のダブル選挙では、橋下市長、松井知事が同時に当選した。
●「地域政党」の着想の原点は20年以上前
地域政党の着想のきっかけは20年以上前に遡る。1999年から2000年にかけて大阪市長・府知事選挙が行われた。立候補した磯村隆文市長と太田房江府知事はともに自民党の推薦を受けていたが、二重行政は当時から課題だった。太田氏は府が大阪市を吸収する「大阪新都構想」案を、磯村氏は大阪市が府から独立する「スーパー政令市制度」を主張していた。当時、府議の浅田氏は「対立する両者を自民党本部が同時に推薦するのはおかしい」と党幹部に詰め寄った。しかし「地域で決めてもらうより仕方がない」という答えにとどまり、それでいて推薦の決定権は党本部が持ったままだった。
それ以来、浅田氏らは、「地域課題については地方が独自に決められるようにすべきだ。中央と地方の関係は、本部と支部でなく、地域で独立する支部の連合体に再構成する必要がある」と考えるようになった。それが「地域政党」、ローカルパーティーの構想となった。
やがて2007年の統一地方選挙で浅田氏(当時、自民党府議団副幹事長)は自身の選挙公約に「地域政党(ローカルパーティー)設立をめざす」と掲げた。これはまさに自民党の中における地方分権運動だった。
2008年2月の府知事選挙後に、橋下氏は浅田氏の選挙公約にある「ローカルパーティー」という言葉に目を留め、「これは何か」と質問をする。浅田氏はこう説明した。「自民であれ、民主であれ、既存政党は何事も東京の本部で決めて地方はそれに従う構造になっている。地方の意向が反映されない党運営をしている。国の分権化には政党の分権化も必要だ。そのためにはローカルパーティーという形がいい」と。それから2年後の2010年4月、大阪維新の会は船出した。
●「二重国籍」の問題
2010年4月の大阪維新の会立ち上げに参加したのは、橋下知事(当時)のほか、松井氏、浅田氏などの府議27人、大阪市議は坂井良和氏がたった1人、それに堺市議5人の計33人だった。所属政党は、自民党が大多数を占めていたが、民主党や無所属から参加した人もいた。大阪維新の会は当初、「ローカルパーティーなので既存政党との二重国籍(党籍)も可」としていた。「大阪を再生させる」という一点で志を同じくする人であれば国政に関する考え方は問わない、という姿勢だった。
維新の会が発足した翌月の2010年5月に福島区で、7月に生野区で大阪市議会の補欠選挙があった。福島区は自民、共産、民主などを相手に、また生野区では民主を相手に、大阪維新の会が勝利した。
そして2011年4月の統一地方選挙である。この選挙は大阪維新の会の将来を決める試金石だった。維新の会は候補者を広く公募することにした。ところがここで自民党との間で摩擦が生じた。
浅田氏らは、当時の自民党府連会長の谷川秀善氏に呼ばれ、次のように申し渡された。「二重国籍は今後、認められない。党から除名された場合は復党できないが、自分から党外に出るのであれば戻ることは可能だ。だからひとまず自民党を離れろ」。これを機に自民党所属の議員は自民党を離れた。なお民主党は二重国籍をもともと認めていなかったため、維新の会に入った者は除名された。
●躍進の原動力になった新人議員
そして4月25日、2011年の統一地方選挙の開票結果が明らかになった。大阪維新の会は府議、大阪市議、堺市議合わせて103人の当選者を誕生させ、一大勢力となった。拡大の原動力は、一般公募から初当選した新人議員たちだった。新人の前職で目立つのは、経産省や国交省の元官僚やビジネスピープルだった。また横山英幸氏(現大阪市長)は元府庁職員、新田谷修司氏は元泉佐野市長だった(以上いずれも府議)。大阪市議会でも弁護士の吉村洋文氏(現府知事)らが当選した。
統一地方選挙の候補者公募で最も重視したのは志の高さだという。維新の会の目的は大阪都構想の実現であり、これを議員の1期4年間で貫徹することになる。だから市議については「あなたたちは最後の市会議員になる。それでもいいか」と覚悟を質(ただ)した。そして「事を成就することだけに集中し、その後をどうやって生き永らえるかは考えないでほしい」と要望したという。
ちなみにお金も足りなかった。当時の大阪維新の会はローカルパーティーでしかなく、政党助成法の政党助成金給付の対象外だった。幹部党員が身銭を切って運営費用を賄い、選挙でも候補者に対する金銭面での面倒を見ることができなかった。「選挙資金は自分で用意してください」と言い渡したという。立候補したのは「それでいいです」と言い切った人たちである。
こうして選ばれた候補者たちが2011年春の統一地方選挙で当選する。私も大阪府の特別顧問の職をいったん辞して維新の会の政策特別顧問となった。そして、浅田氏や松井氏と共に新人議員の教育と大阪都構想の制度設計を始めた。やがて同年秋、橋下氏が知事を辞めて市長選に出馬し、松井氏が知事になる。そこから維新は改革型与党として改革にまい進するのである。
自治体なので課題は具体的である。関西空港の赤字問題、地下鉄の民営化、府と市の二重行政の打破など、実務課題が目白押しだった。実際に行政を掌握し数字や実態を見てわかったのは、多くの課題が放置されてきた原因が府と市の二重行政に由来するということだった。府と大阪市は制度上も予算上もばらばらで、おまけに首長が二人、議会が二つある。そのため一貫した都市経営ができていなかった。
そこで目の前の改革だけでなく、大阪都構想の実現も目指す必要があった。そしてその実現のためには地方自治法の改正が必要であり、そのために国会に議席を持って与党と渡り合う力が必要だという認識に至った。こうして大阪維新の会は国政に進出し、当時の政権与党、当初は民主党、次いで自民党と交渉し、無事に法改正を成し遂げ、2015年の大阪都構想の住民投票が実現できた(結果は否決だったが)。
●保守の与党であるがゆえに改革を進める
維新が国政に出なければならない理由は公明党との対立などほかにもいろいろあったが、大筋は以上の経緯である。維新はいわゆる左翼の革新政党ではない。自民党が出自の議員が多い保守系政党だ。だが「保守が保守であるためにこそ、現状は変えなければならない(でないと都市は衰退する)」という現実認識があった。この15年間の大阪の維新改革はまさに保守系与党による大胆な改革だった。
改革型与党である維新の会の特徴は次の3つだろう。
第1に仕事師の議員が集まる集団である、第2に12年間の政権運営の実績がある、第3に既得権益と戦うスタンスである。
この3要素がそろった政党は今までの日本にはなかった。第1に我が国において政党とは「陳情集団」「利益団体」を意味し、政策に向き合う仕事師は少なかった。第2に維新は国政与党と対立する立場でありながら、日本第2の大都市で政権を12年も運営してきた。府知事と大阪市長の2つのポストを得て議会で多数派を形成し国政における自民よりも強力な基盤を得てきた。この点は大阪市議会が衆議院、大阪府議会が参議院となぞらえてみるといい。要は行政の長を担い、2つの議会で多数派を形成してきた。だから自民党と同じく維新は権力の強さも弱さも知っている。政策形成も現実的であり、どの政党、団体とも是々非々なのである。
だが維新は与党であるにもかかわらず「改革」を目的に掲げる。敵は既得権益であり、時代遅れの規制であり、そして中央集権体制である。保守政党にもかかわらず特徴的な戦闘性(改革力)は、大阪という都市の位置づけによるところが大きいだろう。
政権与党の自民は、地方の既得権益の支援を得て国から地方への利益誘導で勢力を維持してきた。しかし大阪はその構造の中で衰退してきた。過剰な規制や中央への財源の流出と地方へのバラマキの被害を真っ先に被った都市である。もちろん中央からの補助金でやっていける小さな町ではなく、日本全体の改革の必要性を痛感してきた。だから維新は思想においては保守系だが、実務においては圧倒的な革新政党なのである。
●自民が変わらないなら維新が変えるという発想
巨大都市大阪が持続可能であるためには政治が変わらなければならない。そのためには与党自民党が変わらなければならなかった。しかし大阪の自民党は旧態依然で財政赤字は膨らむばかりだった。
となれば改革派が政権を奪取しなければならない。このように実務的かつ合理的に考え、大阪自民は分裂し、改革派は維新の会に引っ越した。逆に言うと大阪自民は実はすでに刷新された。ただし名前は大阪維新の会に変わった。次はむしろ、国政自民が大阪自民に倣(なら)って解党的な自己刷新に励む時期に来ているのではないか。
(注)今回の内容は大阪維新の会の歴史の一端を知る個人としての見解である。なおこの15年間の大阪府と大阪市の改革については拙著「大阪維新」(角川SSC新書)、「検証大阪維新改革」(ぎょうせい、紀田大阪府議との共著)、「大阪から日本は変わる」(朝日新聞新書、吉村・松井・上山の共著)を参照されたい。