「石原軍団」の解散が意味する深い背景 「豪快さ」が消えゆく社会の象徴
「石原プロ」が世に送り出した傑作たち
石原プロが俳優マネジメントを辞めると発表した。
「石原裕次郎」という看板をおろす、ということのようだ。
年配の人たちには、ひとつの時代が終わったと感じられたのではないだろうか。
石原プロといえば、ひとつの代表作は『西部警察』である。
ド派手な爆発シーンなどを売り物にしたテレビドラマだった。
いろんなものが爆発するし、都会でも機関銃を撃ちまくっていた。
なかなか凄いドラマだった。
作られていたのは1979年から1984年の5年間。
いま、こういう金のかけ方をしたドラマは作られない(もっと別方向に金をかけている)。見てる者にも「いかにも大変な無駄遣い」とおもわせる作りであった。
それが楽しかった。そういう時代だったのだ。
もう少し上の世代だと、石原プロといえば映画『黒部の太陽』ではないだろうか。
三船敏郎と共同で、独立プロ制作の巨編として1968年に公開されたこの映画は、かなり話題になった。三船敏郎と石原裕次郎が並んで記者会見しているシーンを何となく覚えている。(当時、私は小学生だった)。
三船敏郎と石原裕次郎は小学生でも知っている大スターで、でも「役者」であるはずの二人が映画を作るというのがよくわかっていなくて、それでも何だか格好良くって、印象に残っている。新しい時代という気配を感じた。
おそらく「1968年」という年が持っている熱気のひとつだったのだろう。
その後1970年代の石原裕次郎といえば『太陽にほえろ!』のボスである。1972年から始まったこの刑事ドラマは国民的な人気番組となり、1986年まで続いた。
同時に並行して『大都会』『西部警察』が作られた(『大都会』シリーズは1976年から1979年)。
こちらでも重厚な存在で、ドラマを締める役どころだった。
わざわざ「軍団」と呼ばれる石原プロの男たち
同時に彼のまわりには「石原軍団」と呼ばれる男くさい役者が集まり、一種独特の集団を形成した。「石原プロモーション」所属の役者たちが「石原軍団」と呼ばれたのだが、他の芸能事務所とは毛色の違う役者が多く、特殊な世界を築いていく。
「軍団」とわざわざ呼ばれる世界である。
何かしらの信念を抱いて、それを頑なに守っている男たちというイメージである。何を信じているのかは、あまりくどくどと説明をしない。あるタイプの人にはとても魅力的な集団である。
もともと石原プロが大事にしようとしたものは「映画」だった。
石原裕次郎は映画のスターだったからだ。
絢爛たるスターだった昭和30年代の石原裕次郎
昭和31年(1956年)『太陽の季節』でデビューするや、瞬く間にスターとなり、毎年、何本もの映画に主演した。石原裕次郎の全盛期は、昭和31年から昭和37年(1956年から1962年)あたりだろう。この7年で60本もの映画に出ている。いまではちょっと考えられない。
当時は、かなりのペースで映画が作られていたのだ。
テレビが一般家庭に普及するのは「皇太子ご成婚」の昭和34年(1959年)からであり(それでも全世帯の半分以下)、だいたいの家にテレビがあると言えるのは東京オリンピックの昭和39年(1964年)少し前からである。
それまではドラマを見るかわりに映画を見ていた。いまより遥かに気軽に見ていたとおもう。家にテレビジョンセットがないのだからしかたがない。
だからスターの出演する映画が次々と公開され、人気だった。
そのころは「時間つぶし」で映画館に少し寄る、という選択肢があったのだ。「喫茶店」でヒマをつぶすことと同じように(それより少し長いバージョンとして)映画を少し見る、というものがあった。そういう気楽な娯楽だった。
映画の途中から映画館に入る風習がふつうだったころ
私が子供のころ昭和40年代にはまだその空気が残っており、たとえば、何を上映しているのかも調べずにとりあえず映画館に行ってしまって、何本か上映してる作品の看板を見比べて入る、ということがふつうにおこなわれていた。時間もあまり気にしない。途中だろうと気にせずに入った。だいたい2本立てや3本立てなので、次の作品は頭から見られるし、もし時間があれば、途中から見始めた映画を最初から見直すということもあった。その場合、あ、このへんから見たな、と気付いたあたりで映画館を出るということをやっていた。
ただし、いつも必ずそうしていたわけではない。自分たちで見るときには新聞で開始時刻を調べて、最初から見ていたた。
親が「映画でも行くか」と連れていってくれるときがそういう雑な見方だったのだ。映画黄金時代にふつうに映画を見に行っていた世代だからだろう。ときにそれを真似て、時間つぶしに映画館に適当に入るのを真似たこともあることにはあった。
こういう習慣がふつうだったことから考えると、製作側もかなり習慣的に製作していたのだろうと想像できる。もちろん力を入れた大作もあっただろうが、あいまに作られるやっつけのような映画もそこそこあったはずである。いまのテレビドラマでも、ああ、これは慌ててやっつけで作ったんだろうな、とおもえるものがときどきあるが、同じようなことだろう。やっつけで作るものがある程度まじってくるというのは、それはまた現場に活気があるということでもある。
石原裕次郎は、日本映画が続けざまにたくさん作られている全盛期の最後を支えたスターであった。
映画界のスターがドラマ出演を始めた1970年代
そのころテレビ放映は始まっていたが、あまりまともにドラマは作られていない。
テレビ創世記のドラマは、生放送であり、映画とはまったく作りがちがっていた。生放送のドラマというものは、見方を変えれば寸劇コントみたいなものである。
石原裕次郎や三船敏郎らの映画界を支えたスターからすれば、あまり相手にするようなメディアではなかったのだ。
しかしやがてテレビが映画を凌駕するようになる。
量産体制で次々と作っていた日本の映画はあまり人を呼べなくなる。多くの人は日本の役者を見るのはテレビで済ませて、金を払って映画館で見るのは「洋画」にかぎる、という時代になっていくのだ。
たぶんテレビを軽視していたであろう三船や石原も、1970年代に入るとテレビドラマに出ることになる。
三船敏郎は自分の所属する三船プロ製作の『荒野の素浪人』に出演し、石原裕次郎もまた石原プロの『大都会』『西部警察』に出る。
ただ、どちらもずいぶんと映画ぽいドラマであった。かつて元気だったころの日本映画の空気を残そうとしているところがあったようにおもう。
『西部警察』がみせた圧倒的な魅力
たとえばそれは『西部警察』によく出ているだろう。
装甲車でクルマを踏み潰したり、ヘリコプターを空中で爆発させたり、何台ものクルマをまとめて爆発させたり、迫力ある映像を売り物にしていた。
ある意味、無駄にしか見えない。ひたすら派手な「消費」が描かれていた。そんなにそこら中で爆発しなくても、事件は解決するだろうとおもうが、どかんどかんと爆発して、見てるほうはなんだか爽快になる。
おそらくそれが元気よかった日本映画の精神だったのだろう。
時代もまたバブルに入る前段階で、日本史上初めて、お上が民に「無駄遣い」をすすめた時期だった。時代の潮目が変わっていくころで、その空気と『西部警察』は合致していた。
彼らのもともとのメッセージは、存分に楽しんでくれ、というものなのだろう。
たとえば「映画館にいるあいだくらいは、現実のことは忘れなよ。ただただ、楽しんでいってくれればいいんだ」というようなものだったんじゃないだろうか。
それはテレビドラマになっても同じである。
石原プロの製作ドラマからはそういうメッセージを感じた。
「ドラマを見てるあいだくらいは現実のことを忘れなよ」というメッセージである。
「ただ、楽しんでくれ。細かいことは気にするな」ともいえる。細かいことは気にするなというのは、見ていて勝手に想像したメッセージであるが、豪快な映像作りはやはり細かいことにこだわってないのがふつうである。
昭和の男が憧れていた「豪快さ」であふれていた世界
細かいことを気にせず、豪快に行動するのが、男らしくてかっこいいとそのころはどこかで信じていた部分があった。
いまとなればどうかとおもうが、そもそも時代が乱暴だったのだから仕方がない。昭和期の前半は、男であるかぎりは徴兵されて戦場に駆り出されて戦わされる可能性が高かった時代なのである。戦争が終わって軍隊が解散させられても、そういう時代に育った世代は戦後の社会を支えて元気で働いていた。そのころは社会にはまだ「豪快で細かいことを気にしない」のが良きこととされていた時代だったのだ。
いまとなってはわかりにくい男らしさが大事にされていた。
それはまた「男だけの乱暴な世界」を構築するのが男にとって楽しかったから、という側面もあるのだろう。
「石原軍団」には、石原裕次郎が日活のスターとして活躍していた時代の空気を、そのまま伝えたいという気分があったように感じていた。
そして「石原裕次郎」の看板がおろされる
その軍団が消える。
2020年かぎりで、ある意味、解散することになる。
その後は渡哲也などが中心となって、流れを汲む集団が形成されるのかもしれないが、「石原裕次郎」という看板はおろされることになった。
おれが死んだら会社は解散しろと石原裕次郎は言っていたらしいが、その気持ちは何となくわかる。それがオトコの世界だからだ。
いまやシネマコンプレックスで映画を見るのがふつうだから「映画を途中から見始めて、そのあと見たところまでもう一度見る」ということはできない。2回ぶんの料金を払えば可能だが、もし友人を誘ってそれをやったらかなり変人扱いされるだろう。
石原裕次郎主演の新作映画を毎月のように見られたころとは時代が違う。
そのころに大事にされていたものは、どんどん後退していってるようである。
静かにひとつの時代の幕がおりるようだ。