【戦国こぼれ話】真田信繁(幸村)を支えた真田十勇士は、実在したのか。その真相を探る
■誰もが欲しい手足となる人材
会社の幹部クラスになると、手足となるような有能な部下が欲しいに違いない。それは戦国時代も同じで、有能な家臣が多々存在した。
真田信繁(幸村)の配下の者といえば、かつてNHKの人形劇ドラマで人気を博した「真田十勇士」が有名である。それぞれが特殊な能力を持ち、信繁をサポートしていたことが知られる。
まずは、その面々を紹介し、次に彼らが実在したのかを考えることにしよう。
■真田十勇士の面々
(1)猿飛佐助
信濃鳥居峠(長野県塩尻市から木祖村を結ぶ峠)の出身。甲賀流の忍者として活躍し、霧隠才蔵のライバルであった。師匠は、戸澤白雲斎といわれている。そのモデルになったのは、当時、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の配下にあった三雲佐助賢春、猿飛仁助の子孫・佐助、伊賀忍者・上月佐助などという説がある。
(2・3)三好清海入道・伊三入道兄弟
2人は兄弟であり、出羽国亀田(秋田県由利本荘市)の出身。関ヶ原合戦で徳川秀忠が上田城(長野県上田市)を攻撃したとき、信繁のもとで戦ったという。同合戦で敗北すると、信繁に従って九度山(和歌山県九度山町)で生活を共にした。大坂落城時には、兄・清海は切腹して自分の首を切り落とし、弟・伊三は切腹しながら辞世の狂歌を詠んだ。
(4)根津甚八
信濃の名族・滋野氏の流れを汲む根津氏を出自とする。父と死別後、海賊となり首領にまでなったという。甚八は信繁が秀吉の命により九鬼水軍の動向を探っている際に会い、配下に加わった。大坂の陣では信繁の影武者となり、最期は徳川方に討ち取られる。ちなみに、俳優の根津甚八氏は、真田十勇士にちなんで自分の芸名にしたという。
(5)由利鎌之介
三河野田城(愛知県新城市)主・菅沼氏の家臣。槍と鎖鎌の達人である。賤ヶ岳の戦いで羽柴(豊臣)秀吉方に与し、信繁を悩ませるが、そのとき穴山小助との一騎打ちに敗れ、以後は信繁の配下に加わった。信繁の九度山配流後は、江戸で槍の道場を開きながら、徳川家康の動向を探る諜報活動に従事した。
(6)穴山小助
もと武田氏の家臣であった穴山梅雪の甥。武田氏滅亡後、小助は信繁に仕え九度山でも生活を共にした。小助は姫路で漢方医をしながら、諸国の動向を探っていた。信繁と体格が似ていたことから影武者を務め、最期は家康の本陣に突撃し、壮絶な最期を遂げた。
(7)海野六郎
信濃の名族・滋野氏の流れを汲む海野氏を出自とする。真田家譜代の家臣。根津甚八と共に奥州で諜報活動をし、大坂落城後は信繁と共に薩摩へ落ち延びたという。大坂夏の陣ではニセの情報を流し、徳川方を撹乱させた。
(8)筧十蔵
もとは阿波・蜂須賀氏の家臣。のちに信繁の人柄に惹かれ、配下に加わった。火縄銃の名人として知られる。大坂落城後は信繁と共に薩摩へ落ち延びたという。
(9)霧隠才蔵
近江の大名・浅井家の侍大将を務めた霧隠弾正左衛門の遺児。浅井家滅亡後、伊賀国名張(三重県名張市)に逃亡したところ、伊賀流忍術で知られる百地三太夫の教えを受け、忍術をマスターしたという。才蔵は信繁の配下にあったとき、霧隠鹿右衛門と名乗っていたが、才蔵に改名させられた。
(10)望月六郎
信濃の名族・滋野氏の流れを汲む望月氏を出自とする。信繁が九度山で逼塞しているとき、留守役として共に生活し、爆弾の製造も行っていた。大坂の陣では影武者を務め、最期は徳川方の大軍に囲まれ自害する。
■真田十勇士の原型とは
真田十勇士のうち、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小助、由利鎌之介、筧十蔵、海野六郎、根津甚八の8人の原型となる人物は、元禄期に成立した真田昌幸・信繁・大助の真田三代を主人公とする『真田三代記』に登場した。
その後、同書などをもとにして、神田伯竜によって『難波戦記』という書物が著された。やがて、猿飛佐助、望月六郎の2人を加え、真田十勇士になったのである。
明治44年(1911)、立川文明堂から「立川文庫」が刊行され、中でも『真田幸村』と『真田十勇士』はもっとも人気があった。同書を通じて、真田信繁と真田十勇士の話は広く知られるようになる。
■空想にすぎない真田十勇士
しかし、真田十勇士の存在は、たしかな史料では確認できない。先述した真田十勇士の説明は、『真田三代記』や「立川文庫」の『真田十勇士』などに基づくもので、まったくの空想なのである。
多くの人々を魅了した真田十勇士は、近世に成立した編纂物などが「立川文庫」でさらに脚色され、信繁が家康を苦しめるという痛快無比な作品に仕立て上げられているにすぎない存在なのである。