豊臣秀吉は猿に似ていたのか? それとも鼠に似ていたのか?
今や人の容姿を冗談でもあげつらうことはいけないことである。あだなを禁止する学校などもある。とはいえ、かつて豊臣秀吉は猿に似ているといわれてきた。あるいは、鼠に似ていたともいわれている。
秀吉の容姿は、どのようなものだったのか考えてみよう。
現在、少なからず豊臣秀吉の肖像画が残っているが、猿に似ているのかといわれると、何とも言い難いところがある。実際に秀吉と面会した宣教師のルイス・フロイスは、秀吉が身長が低く、容姿は醜悪だったと記録している(『日本史』)。
それだけではない。フロイスは秀吉の目は飛び出ており、中国人のように髭が少なかったとまで書いている。いささか悪意に満ちている印象が残る。
同じフロイスの『日本史』によると、秀吉は自分の容姿が醜いこと、五体も貧弱だったこと(小柄だった)を自ら述べたという。そのうえで秀吉は、日本における私の成功を忘れてはならないと発言したのである。秀吉は、侮られることを潔しとしなかったのだ。
ところで、秀吉が猿に似ていたという話は、ほかの二次史料にも書かれている。秀吉に会った松下之綱は、猿かと思えば人であり、人かと思えば猿だったと感じたようだ。
猿は日吉大社の神の使者だったので、秀吉が猿と称されたのは、山王信仰に基づくものだったという説もある。
猿だったと感じたのは、秀吉に面会した朝鮮の使節も同じだった。使節は秀吉は顔が小さくて色が黒く、容姿は猿に似ていたと感想を漏らした(『懲毖録』)。
毛利家家臣の玉木吉保は、秀吉が猿まなこだったと述べている(『身自鏡』)。「まなこ」とは目のことなので、この場合は秀吉の目が猿のように大きくてクリクリしていたということになろう。
つまり、秀吉が猿だったというのは、猿のように目が大きくてクリクリしていたからではないだろうか?フロイスが『日本史』で、秀吉の目が飛び出ていたと書いたのは、その証左になろう。そして、秀吉は小柄だったので、余計に猿に見えた可能性がある。
一方で、織田信長の書状(秀吉の妻「おね」宛)によると、秀吉が「禿げ鼠」と呼ばれていたことがわかる。ただ、猿と鼠とでは大違いである。
いずれにしても、秀吉は体が小さくて痩せており、それゆえ目が大きくクリクリして見えたので、猿と呼ばれたと考えられる。