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【光る君へ】一条天皇と藤原定子との間に誕生した脩子内親王とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」では、一条天皇と藤原定子の面会がかなうことになった。2人の間に脩子内親王が誕生したので、どういう女性だったのか紹介することにしよう。

 藤原道隆の娘の定子が一条天皇の中宮になったのは、正暦元年(990)10月のことである。定子は、一条天皇よりも4歳年上だった。非常に仲睦まじい夫婦だったといわれている。しかし、その幸せは、決して長く続くことがなかった。

 長徳元年(995)4月、関白の道隆が亡くなった。道隆の死後、弟の道兼が関白に任じられたが、間もなく病没した。道兼の没後、内覧に任じられたのが、道隆・道兼兄弟の弟の道長だった。道隆の子で内大臣の伊周も有力な候補だったが、あとを継ぐことができなかったのである。

 その後、伊周は道長と激しい権力争いを演じたが、翌年1月の長徳の変(伊周・隆家兄弟の従者が花山法皇に矢を射た事件)で失脚した。その際、検非違使が伊周を捕えるため、定子の邸宅を捜索した。あまりのことに、定子は発作的に髪を切った。これが不幸のはじまりだった。

 当時、定子は一条天皇の子(脩子内親王)を身籠っていたが、髪を切ったことが出家とみなされ、内裏にはいられなくなり、2人は離れ離れになったのである。しかも、定子は精神的なショックが大きかったのか、12ヵ月の妊娠期間を経て、子を産んだといわれている。

 脩子内親王が誕生したのは、長徳2年(996)12月16日のことである。長保2年(1000)に定子は亡くなったが、一条天皇は脩子内親王を深く愛した。寛弘4年(1007)1月、脩子内親王は一品に叙され、准三后に処遇されたうえ、本封に加えて1000戸が給与された。

 寛弘8年(1011)に一条天皇が亡くなると、脩子内親王は藤原隆家(定子の弟)の屋敷に移って生活した。生涯を独身で押し通し、治安4年(1024)に出家したが、その一方で延子(藤原頼宗の娘)を養女として迎えたのである。

 脩子内親王は非常に教養が豊かな女性で、書や琴・琵琶の演奏に長じていた。脩子内親王が亡くなったのは、永承4年(1049)2月7日のことである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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