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金の切れ目が縁の切れ目。金で成功した戦国武将、失敗した戦国武将3選

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(写真:イメージマート)

 政治資金の問題が泥沼化しているが、戦国武将も金では大いに悩んでいた。「金の切れ目が縁の切れ目」というが、ここでは金で成功した戦国武将、失敗した戦国武将を3人取り上げることにしよう。

◎伊達政宗と「百万石のお墨付き」

 慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原合戦が勃発した。勝ったのは、東軍を率いる徳川家康だった。開戦前の家康は、諸大名に味方になってもらうため書状を送った。

 むろんタダというワケではなく、恩賞(新規の知行宛行)を条件として、東軍に与してほしいと依頼したのである。伊達政宗もその1人だった。

 かつて政宗は、豊臣秀吉から所領の一部を没収されていた。家康は政宗が味方になった場合、旧領などの返還を条件として示し、味方になって欲しいと申し出た。

 現在の知行と旧領の返還などの合計が約100万石になるので、「百万石のお墨付き」と称された。しかし、戦後、家康は約束を反故にしたのである。

◎黒田官兵衛が「九州版関ヶ原」で勝利した理由

 関ヶ原合戦がはじまる前、東軍に与した黒田官兵衛は豊前中津にいたが、周囲の諸大名は西軍に属した者が多かった。おまけに、かつて豊後を領していた大友義統が九州に攻め込んでくることが確実になった。

 ところが、黒田家の将兵の多くは長政(官兵衛の子)が関ヶ原に連れて行ったので、中津に残る軍勢は乏しかった。このままでは、戦いに勝てる見込みが薄かった。

 官兵衛は日頃から蓄財に励んでいたので、金銀を配って牢人衆を掻き集めた。その結果、多数の牢人を雇うことができたので、官兵衛は西軍に与した九州の諸大名を討つことに成功したのである。

◎豊臣秀頼に多くの牢人が集まったワケ

 慶長19年(1614)に大坂冬の陣が勃発し、豊臣秀頼は徳川家康と雌雄を決することになった。ところが、家康方には全国のほぼすべての大名が味方したが、秀頼に味方する大名はいなかった。

 ところが、豊臣家には秀吉の頃から、多額の金銀が蓄財されていたのである。これは秀頼にとって、大きな力となった。

 秀頼は牢人を集めるため、金銀を惜しみなく与えた。しかも戦後の恩賞ではなく、当座の資金として開戦前に配ったのである。それゆえ大坂城には、多数の牢人が集まったが、それでも家康には勝てなかったのである。

 戦国武将は、友情だとかで動いたのではない。ボランティア精神はなかった。まず、どちらかに味方すれば勝つかが重要で、次に恩賞が問題だった。現在以上にシビアな世界だったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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