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【光る君へ】花山天皇出家事件でも活躍した源満仲とは、どういう経歴の人物だったのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」の見どころの一つは、花山天皇出家事件だった。その際、ドラマでは取り上げられていなかったものの、活躍したのが源満仲である。満仲とは、いかなる経歴の人物だったのか考えてみよう。

 寛和2年(986)、忯子を失い悲嘆に暮れた花山天皇は、突如として出家した。背後で花山天皇の退位を目論んでいたのは、藤原兼家だった。

 兼家は外孫の懐仁親王(一条天皇)を即位させるため、子の道兼に対して、花山天皇に出家を促すよう命じたのである。

 道兼は花山天皇を内裏から連れ出し、山科(京都市山科区)の元慶寺に連れ出した。道兼は「私も出家しますから」と嘘を言って、一時的に決心が鈍った花山天皇を出家させることに成功したのである。

 花山天皇を元慶寺に連れ出す際、警護のために郎党らを率いたのが満仲だった。

 延喜12年(912)、満仲は経基の子として誕生した(生年は諸説あり)。安和2年(969)に安和の変(為平親王を擁立しようとした事件)が起こると、源高明の陰謀であることを密告した(高明は失脚)。

 その際、藤原千晴(平将門を討った秀郷の子)も関与したとされ、失脚。満仲は、その功により正五位下に叙された。藤原氏と結ぶことにより、満仲は武人として台頭したのである。

 その後、満仲は摂津国、越後国、越前国、伊予国、陸奥国などの受領を歴任することになり、左馬権頭、治部大輔を務めたのちに鎮守府将軍に任じられた。

 また、満仲は摂津国多田(兵庫県川西市)を本拠に定めた。それは、住吉大社(大阪市住吉区)の神託に従ったものだった。こうして、満仲は多くの郎党を従え、武士団を築いたのである。

 永延元年(987)、満仲は出家して満慶と号した。満仲が出家したときは、女房30余人、郎党16人がこれに従った。

 『今昔物語』によると、延暦寺(滋賀県大津市)の僧侶・源賢(満仲の子)は、父が殺生を行っていることに悲しんでいたという。そこで、源賢は延暦寺の天台座主・院源とともに、満仲に仏法を説いた。その結果、満仲は出家したと伝わっている。

 満仲が亡くなったのは、長徳3年(997)のことである。満仲には多くの子供がいたが、中でも頼信は河内源氏の祖となり、「道長四天王」(ほかは平維衡・平致頼・藤原保昌)の1人に数えられた。その子孫は、のちに鎌倉幕府を開いた源頼朝につながったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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