闘病中――、ベッド付きのマイクロバスを温泉宿に横付けさせてまで、酒を飲んだ”昭和の大スター”
男八人が岩風呂で温泉に入りながら、みなで万歳をしている写真がある。
湯けむりのせ いか、少しぼけているが、皆がみな、満面の笑み。
よく見ると真ん中に見覚えのある顔が。 石原裕次郎と渡哲也ではないか─ ─。
他の写真でも裕次郎と渡哲也はねじり鉢巻きをしており、ご機嫌麗しい。
ここは福井県あわら温泉「べにや」。
「裕次郎さんは、とにかく温泉が大好きな方でした。ご宿泊された時は、遅めに起床され まして、起きてすぐに温泉へ行かれました。一日に何度も温泉に入るのですが、その度に、『奥ちゃん、お風呂行こうよ』と先代の父を呼びに事務所まで来たそうです」と、「べにや」の奥村隆司社長が話す。
裕次郎は温泉から上がると、いつも二階のロビーにやってきて、ビールを片手に三〇〇 〇平米もの日本庭園を見渡せるソファーで寛いだ。 裕次郎の座右の銘である「風行草偃」を色紙に記したのも、やはり温泉入浴後のロビー でのこと。
昭和五十七(一九八二)年十二月六日のことだった。
昭和において石原裕次郎といえば、当代一のスター。銀幕では燦々と輝き、圧倒的な在感を放つも、解離性大動脈瘤などのいくつもの大きな病に苦しめられたことは、つとに知られている。
裕次郎が温泉で火照った身体を庭からの風と好物のビールで冷ます。そん な心ほぐれた時に「風行草偃」を書いたのだ。
「風行草偃」が意味する「自然の摂理に逆 らわずに、しなやかに生きていきたい」とは、裕次郎の素直な気持ちの表れなのだろう。
裕次郎の〝温泉と酒〞のエピソードをもうひとつ挙げよう。
四年後の昭和六十一(一九八六)年秋に「べに や」を訪れた時は約四〇日間逗留し、最後の訪問 となった。 医師から塩分制限を告げられたため、まき子夫人は毎食の塩分チェックをしており、もちろんアルコールも控えざるをえない状況。
「べにや」の駐車場にはベッドを設置した石原プロのマイクロバスが常駐し、もしもの時はこのバスで東京に戻るという準備もしていた。
そうした周囲の緊張はよそに、裕次郎はいつものように温泉に浸かり、いつものように二階のロビーに向かう。
勝手知ったるロビーである。奥からリキュールを取り出し、強い酒を飲ん でしまった… …。
その晩、高熱を出してしまい、都内の慶應義塾大学病院から医師が「べ にや」に駆けつけるという事態に陥ったが、なんとか事なきを得た。
※この記事は2024年6月5日発売された自著『宿帳が語る昭和100年 温泉で素顔を見せたあの人』から抜粋し転載しています。