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古賀稔彦の眼光から鋭さが消えた──「平成の三四郎」が辿り着いた境地、そして伝えたかったこと。

近藤隆夫スポーツジャーナリスト
1992年バルセロナ五輪金の3年後、95年世界選手権でも優勝した古賀稔彦(写真:青木紘二/アフロスポーツ)

まさかの知らせに驚き、時間の経過とともに悲しみが込み上げてくる。

「平成の三四郎」古賀稔彦が、がんと闘病の末、3月24日に他界した。53歳の若さで──。

31年前の小川直也との対決

私が古賀の名を知ったのは高校生の時。

講道学舎に入り世田谷学園に通っていた彼は、2つ歳上の兄・元博とともに高校柔道界では知られた存在だった。金鷲旗で活躍、2,3年時にインターハイ中量級を連覇するなど将来を有望視され、輝きを放っていた。

彼とは同じ1967(昭和42)年生まれの私も、都内の高校の柔道部に所属していた。しかし、レベルが違うから闘うステージが異なる。一方的に憧れの眼差しを向けていただけで交わる機会はなかった。

知り合って言葉を交わすようになったのは、私が『ゴング格闘技』の記者になり柔道を精力的に取材するようになってからだ。

忘れ難きは、1990年4月29日、日本武道館での『全日本柔道選手権』。

体重無差別で日本一を争うこの大会に、71キロ級の古賀が挑んだ。この常識破りのチャレンジは大きな話題となるも、この日の彼の体調は最悪だった。

当時は、ほとんど報じられなかったが、前日まで高熱が続き、決戦当日の朝もカラダにだるさを感じたまま会場に入った。

それでも、本番になると古賀は強かった。重量級の選手相手に臆することなく果敢に攻め込み勝利を重ねる。135キロの上原力、120キロの御嶽知昭、155キロの渡辺浩稔、そして準決勝で108キロの三谷浩一郎を破る。この瞬間、長い歴史を持つ『全日本柔道選手権』において最軽量のファイナリストが誕生した。

決勝の相手は、日本重量級のエース小川直也。

超満員の日本武道館の空気は張りつめていた。そんな中、連覇を狙う小川が非情な攻めに出る。すでに疲労困憊の古賀の奥襟をつかみ頭を下げさせ、7分過ぎに足車を見舞う。これが見事に決まった。

一回転させられた古賀は青畳の上で大の字に。

「一本!」

自らの敗北を告げる主審のコールを、古賀は天井を見上げながら聞いた。

その数日後、古賀は私に言った。

「武道館の天井ってあんな形をしていたんだ。いままで大の字になって見上げたことなんてなかったから(笑)」

そして続けた。

「今回の負けは気持ちの差。体調は関係ない。小川はチャンピオンになると強い思いで大会に挑んでいた。でも俺は、『どこまでやれるかな』と思って試合をしていたから。絶対に優勝するという強い気持ちじゃないと勝てないよね」

2年後、1992年のバルセロナ五輪。

この時も古賀は窮地に立たされた。現地入りしてからの練習中に左ヒザを負傷。絶体絶命の状況下、勝負強さを発揮し金メダルを獲得した。「絶対に金メダル!」という強い気持ちを宿していたからこその快挙だったように思う。

柔道とは何かがやっとわかった

2000年に彼が現役を引退した後も、会う機会は幾度もあった。

05年には、一緒に柔道の技術書を編んだ。

『古賀稔彦の一本で勝つ柔道』(MCプレス)──。

川崎市にある古賀塾の青畳に座って、何時間も話し合った。そして、古賀の得意技である「一本背負い投げ」「背負い投げ」を軸に投げ技の奥義に迫った。

いまでこそ、背負い投げの重要ポイントである「三角の足運び」は広く知られているが、動画を通して、この奥義を公にしたのは、このDVD付きの書籍が初めてだった。

この頃になると、古賀に一つの変化があった。

眼光の鋭さが消えていたのだ。

そのことを指摘すると彼は、穏やかな笑みを浮かべながら言った。

「やっとわかってきたんですよ、柔道とは何かが。現役の時は、勝負に勝つことばかり考えていて毎日必死だった。でも柔道の本質はそこにはない。

嘉納治五郎先生は言いましたよね。『精力善用』『自他共栄』って。そのために柔道はあるんですよ。これからは、そのことを若い人たちに伝えていきたい」

最後に会ったのは、一昨年(2019年)12月5日、世田谷区の烏山区民会館で開かれた彼の講演会。お気に入りの青い柔道衣を身に纏い壇上に現れた彼は、ユーモアたっぷりのトークで聴衆を魅了していた。嘉納の言葉を引用し柔道の本質に触れながら。

丁度その頃、私は、児童書『柔道の父、体育の父 嘉納治五郎』(汐文社)を書き下ろしたばかりだった。その書を古賀に贈った。

数日後、私のもとに古賀から郵便物が届く。

達筆に感謝の辞が綴られた色紙とともに手紙が入っていた。

「会いましょう。いっぱい語り合いましょう」

そう書かれていた。

だが、その後に会う機会はなかった。

古賀稔彦は、私にとってアイドルだった。いや、これからもずっと、永遠に──。

スポーツジャーナリスト

1967年1月26日生まれ、三重県松阪市出身。上智大学文学部在学中から『週刊ゴング』誌の記者となり、その後『ゴング格闘技』編集長を務める。タイ、インドなどアジア諸国を放浪、米国生活を経てスポーツジャーナリストに。プロスポーツから学校体育の現場まで幅広く取材・執筆活動を展開、テレビ、ラジオのコメンテーターも務める。『グレイシー一族の真実』(文藝春秋)、『プロレスが死んだ日。』(集英社インターナショナル)、『情熱のサイドスロー~小林繁物語~』(竹書房)、『柔道の父、体育の父  嘉納治五郎』(ともに汐文社)ほか著書多数。仕事のご依頼、お問い合わせは、takao2869@gmail.comまで。

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