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話題の藤本タツキの漫画『ルックバック』単行本が発売 再び変更されたセリフの先に示された姿とは

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:アフロ)

『ルックバック』二日で400万ビューの衝撃漫画

藤本タツキの漫画作品『ルックバック』の単行本が出た。

書店に積まれている表紙を見て、ああ、淡いグリーンなんだ、と、そこが新鮮だった。

『ルックバック』は2021年7月19日にインターネット上の作品として発表され、またたくまに話題になり、二日で400万ビューを超え、それがニュースになった。

ネットニュースは見ていたが、その時点では読んでいなかった。

ただ、それから数日経つと、漫画好きの後輩たちが妙にそわそわした気配で「見ましたか」「読みましたか」と聞いてくるものだから、それも別々の複数の人間が言ってくるので、その気配に押されるようにして読んだ。

140pを超える漫画であったが、あっという間に読み終わる。

『ルックバック』その複層的で誘発的で、魅力的な内容

とても引き込まれる漫画だ。

複層的な漫画であり、きわめて誘発的な作品である。つまり読むと何か言いたくなる。

そして何度も読みたくなる魅力がある。

話題になったからという理由で読むのを避けている人がいるとおもうが(私も、ニュースで見たときは、それだけでは読む気にはならなかった)もし、漫画に少しでも興味がある人なら、ぜひ、読んで欲しいとおもう。

漫画を描く少女たちの物語

(以下、核心には触れないように紹介するが、でもそこそこのネタバレをしてしまうので御注意。繰り返すが、ぜひとも、漫画を直接読んでもらいたい)

漫画を描くのが得意な少女の話である。

『ルックバック』は読む人によって、何をどう感じるかは、まったく違ってくる作品だとおもわれる

優れた作品はすべてそうであるように、どこに反応するかによって見える世界が違ってくる。そういう魔法の鏡のような作品だ。

漫画を描くのがうまい小学四年生の女子「藤野」が主人公である。

そこへもう一人、不登校だけれど絵がとても上手い女子「京本」が登場してくる。

「藤野」と「京本」、この二人の少女の物語である。

「絵」と「漫画」のうまさの違い

対照的な二人の少女が登場するため、いろんな方面が照射される。

たとえば、「絵と漫画」について描かれている。

「絵を描くこと」と「漫画を描くこと」はどう違うかというのが、とてもさりげなく簡潔に示されている。

また、「絵が上手い」とはどういうことなのか、「絵が上手くなりたい」という気持ちがどういう世界を引き寄せるのか、それも淡々と見せる。

ついでに「小学生にとって絵が上手い子がどんな存在なのか」「絵ばっかり描いているのはどんな存在か」ということがリアルに示され、そのへんはさりげないながら、かなり深い。

ただ「静かな漫画」である。

余計なセリフがない。

絵でどんどん説明する。読み込める部分と流してしまう部分が人によって違ってくるはずだ。

そういうことを可能にする藤本タツキの画力と構成力に、ただ唸るしかない。

「田舎の少女の物語」の魅力

また「田舎に住む二人の少女」の対比は、いろんな物語を紡ぎ出す。

積極的で運動も得意でクラスの中心にいる「藤野」と、不登校で人と話すのがあまり得意ではない「京本」は、漫画で繋がっていく。

正反対のキャラの二人が寄り添うさまが、地方の風景のなか描かれる。

心に残るシーンがいくつも出現する。

ひとつ、地味めのシーンであげるなら、冬の夜、離れた場所にぽつんとあるコンビニに行くため、大雪を苦労して進む藤野と京本二人の姿に、私はとても惹かれる。

藤野が前に立ち、京本はあまり雪の中を歩いた経験がないのか、とても歩きづらそうで、それを藤野がリードして進んでいく。

このシーンを何度も何度も見返してしまった。

雪の描き方が見事である。

創作はどこまでも孤独であることを示す「後ろ姿」

協力してものを創る、ということについても丁寧に描かれる。

小学生のときの関係は、大きくなるにつれて変化していく。

何者でもない少女たちが、何かになっていくにつれ、それぞれの道ができていく。その部分も丁寧に描かれている。

『ルックバック』を読んで、特に刺さってくるのは「ひたすら一人で漫画を描く姿」である。

机に向かって絵を描く後ろ姿が、繰り返し描かれている。

静かな絵である。

創作作業は、孤独である、ということを描いている。

最後はたった一人で何とかしていかなければいけない。

静けさが沁みいる漫画

物語の展開はかなり熱いものがあるが、でも、展開する絵は、ずっと「静けさ」に満ちている。沁みいるような静かな漫画である。

「セリフのないコマ」がとても多い。

絵だけで展開していく。

この漫画は全部で142ページある。

コマ数は全部で622コマだとおもう。

数えてみると、622コマ中、セリフのないコマが391コマであった。

全体の半分以上、62%にセリフがない。

6割がただ絵だけなのだ。とても静かな漫画である。

(登場人物のセリフがないコマを数えている。たとえば作中作である四コマ漫画にあるセリフは当漫画のセリフにはカウントしていない)。

ただ描くしかないことを雄弁に語る

静けさを支えているのが、机に向かってひたすら漫画を描く後ろ姿である。

ただ後ろ姿だけを描いたのが全部で38コマもある。

とても印象深い。

だいたいが自室で、ときには学校の教室で、原稿用紙に向かっている。

うつむき加減の後ろ姿。

ときに連続して描かれ、服装が替わり、外の風景が変わっていく。

季節が変わり、年が変わっていく。

でも姿勢は変わらない。いつもずっと机に向かっている。

何も言わず語らず、黙々と描いている。

創作者は、ただ、描くしかない。

机の前に座って描き続けるしかない。

そのことをじつに雄弁に示している。

ただ背中を見ているしかない漫画

これはべつに漫画家にかぎらないだろう。ゲーテだって、プーシキンだって、谷崎潤一郎も村上春樹も、ただ黙って机の前に座って書き続けてきたはずである。

それはすべてのデスクワークに従事する人に共通することだ。

その姿に惹かれる。

10歳のときから、20歳になっても、そのまま「懸命にものを創る少女の後ろ姿」が迫ってくる。

彼女の描いた作品は、たとえばその代表作である「シャークキック」を私たちは読むことはできない。

ただ、彼女がその作品に打ち込んでいる後ろ姿を見るだけである。

背中を見ているしかない。

その姿から、何かを感じ取るしかない。

そういう漫画である。

『ルックバック』問題のセリフ変更について

物語は後半、意外な展開を見せる。

その衝撃的な展開部分のセリフが変わった。

「ジャンプ+(プラス)」に掲載されたときのセリフは、その後、いちど変えられ、また、単行本化に際して、もう一度、変更されている。

何カ所かにわたって2度、変更されているわけである。

もっともわかりやすい一カ所だけをあげておく。

111pめのセリフである。

最初はこうだった。

「オイ ほらア!! ちげーよ!! 俺のだろ!? 元々オレのをパクったんだっただろ!?

ほらな!! お前じゃん やっぱなあ!?」

その後、ジャンプ+で変更されたときは、こうなった。

「オイ 見下しっ 見下しやがって! 絵描いて 馬鹿じゃねえのかああ!?

社会の役に立てねえクセしてさああ!?」

そして単行本では、つまり最終的にはこの形になっている。

「オイ 見下しっ 見下しやがって! 俺のアイデアだったのに!

パクってんじゃ ねえええええ」

錯乱している人物の描き方そのものは少し変えたが、「2019年に京都で起こった事件」を想起するようにセリフは戻されている。

そこには「描き手」を描く作品として、強いおもいが込められているのだろう。

著者および編集者の強い意志が感じられる。

すべてを超えた「後ろ姿」を描いた作品

後半部分の予想外の展開をどう読み取るかは、これもまた読む人によって違ってくるだろう。

ふつうの展開ではなくなり、丁寧な説明がないまま一読しただけではよく掴めない展開を見せる。

どこまでを現実ととらえるか、どう解釈するかは、おそらく人によって違ってくるはずだ。

そして、その大変な展開を超えて、「机に向かう姿」が描かれる。

後半の怒濤の展開を超えた姿として「後ろ姿」が描かれている、そう私には見える。大事なのはこっちの姿であるように、そういうメッセージを私は受け取った。

机に向かう後ろ姿には、あらゆる希望とあらゆる無念さと、懸命に前を向く力が込められている。

そう、感じられる。

何があろうと、作家は、近くの人にはただその「後ろ姿」を見せることしかできないのだ。

何かしら痛烈な叫びが聞こえてきそうだが、でも静謐な姿で漫画は終わる。

漫画史上に残る作品におもう。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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