【その後の鎌倉殿の13人】鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経の遠足が一苦労だった意外な裏事情
安貞2年(1228)6月22日。鎌倉幕府4代将軍の藤原頼経(1218年生まれ)は、同月26日に相模川の辺りに遠足することになっていました。その際、有力御家人・三浦義村の田村邸(神奈川県平塚市田村)に一泊することを、頼経は思い立ちます。しかし、そこに邪魔が入ります。「田村は、鎌倉の御所の乾(北西)の方角、外出を忌む太白(金星。軍事に関連する星)の方角に当たるのではないでしょうか」、だから、その日に将軍が田村に行くのは良くないという人々がいたのです。田村に行って良いのか否か。それを聞くため、将軍・頼経は陰陽師の安倍親職と晴賢を呼び寄せます。晴賢は「田村には行ったことがないので、容易く決める事はできませんが、伝え聞くところによると、田村は乾の方角ではないようです」と言上。一方、親職は「田村は、戌(西北西)の方角です。よって、泊まることに問題はない」と三浦義村に言ったそうです。ということで、義村邸に泊まる事は問題ないとされたのですが、義村が喪に服さないといけない事態が急に起きたため、田村への遠足は延期になってしまいます。明日は、他所に遠足することを頼経は考えます(9月25日)。しかし、これにも「難癖」を付ける人々がおりました。「明日は、延長年間(923〜931年)において、清涼殿(平安京内裏の殿舎の1つ)に落雷があった日でございます。従って、必ず、雷雨がありましょう。外出の妨げとなります」というのです。この提言を受けて「明日、雨が降るか、否か」を占うように、陰陽師に命令が下ります。陰陽師の間でも、意見は分裂。雨が降る派と降らない派に分かれたそうです。6月26日、結局、頼経は森戸(神奈川県葉山町)に遠出しています。そこでは、笠懸(馬に乗りつつ、弓で的を射る)や相撲の「勝負」があったとのこと(酒宴の間には、音楽が奏でられました)。執権・北条泰時もそれに付き添っていました。一行は、夜になり、船で由比ヶ浜へ帰ったそうです。年少の将軍・頼経は、遠足を満喫したと思われます。