都立雪谷の主将で甲子園出場の監督が離島で伝える「自分たちで考える野球」と「野球の価値」
選手の判断で成功させたダブルスチール
私学優勢の東京にあって、都立が甲子園出場を果たすのは至難の業だ。これまで「聖地」にたどり着いた都立校は、国立高(1980年夏)、城東高(1999年夏、2001年夏)、雪谷高(2003年夏)、小山台高(2014年春)の4校だけである(小山台高は21世紀枠での選出)。
雪谷高の主将・三番打者として甲子園の土を踏んだのが、増子良太氏だ。現在は都立大島海洋国際高で野球部の監督を務めている。都立では3校目の快挙から17年。増子監督は「都立の野球と言うか、自分たちの野球を貫けたのが大きかったと思います」と振り返る。
自分たちの野球―。それは自ら考えてプレーする野球だった。
増子監督の言葉を象徴するのが、東東京大会決勝(対二松学舎大付高)でのダブルスチールだ。2003年夏、雪谷高は名門・帝京高を破って波に乗る東京実業高を準々決勝で下すと、準決勝では春は苦杯を喫した安田学園高にリベンジし、初の決勝に進出した。
八回まで両校無得点だったこの試合、九回に雪谷高が均衡を破る。1点を追加してなおも2死一、三塁の場面。ここで一塁走者に盗塁のサインが出る。相手捕手も想定していたか、しきりに「走ったらショートが入れ」と声をかけていた。ただ、盗塁を刺すことに集中し過ぎていて、三塁走者のマークが疎かになっていた。
これをよく見ていたのが、雪谷高の三塁走者だ。本塁を狙える…捕手が三塁に目をやらずに送球すると、その瞬間にスタートを切った。二松学舎大付高の遊撃手は送球をカットしてバックホームしたが、悠々とセーフに。結果的にダブルスチールとなった。
勢いを増した雪谷は、この回を一挙5点のビッグイニングとする。選手の判断で奪った3点目が、甲子園初出場をたぐり寄せる価値ある得点となった。
短い平日の練習時間がプラスに作用
自ら考えてプレーする野球が培われたのは、平日の練習時間にあった。「雪谷は定時制があるので、5時30分完全下校が義務付けられていました」。夏場ならまだ日が高い時間帯である。平日はわずか1時間半しか練習ができなかったのだ。しかし雪谷高はこのハンディを活用した。下校後の時間を、自分と向き合い、自分を高める、自主練習の時間としたのだ。ある者はバットを振り込み、ある者は走った。増子監督は、3年になるとジムに通っていたという。
もともと雪谷高の選手には、誰も見ていなくてもやるべきことをやる、というのが染みついていた。「相原健志監督(当時、現日体大荏原高監督)は外部指導員で、仕事の関係で、練習に来られない日も少なくありませんでした」。監督が見ているから、監督に言われたから…という文化はなく、監督がいてもいなくても同じように練習に取り組んでいたのだ。
やるもやらないも自分次第。各々の自主性に委ねられていた。ある意味、自由である。ただし、自由は諸刃の刃でもある。使い方を間違えば、良くない方向にベクトルが向く。
実際、そうなりかけたこともあった。
「1年の冬に、ある同期が遊びたいからやめると言い出し、彼は甲子園出場時の主力だったんですが、いきなり髪を染めてきまして(笑)。2年冬には同期が一斉に風邪と偽って練習をさぼったこともありました」
多感な時期である。絵に描いたようには進まない。増子監督は主将の役割を果たそうと、同期に厳しくあたっていたため、反発も受けた。「何度もやり合いましたね。よくもめてました(苦笑)」。
夏の大会前にようやくチームが1つに
チームが1つになってつかんだ2003年夏の甲子園初出場だったが、最初からまとまっていたわけではない。前年秋は気持ちの緩みから、ブロック大会決勝で堀越高にコールド負けを喫している。「ちょうど秋の大会期間中に修学旅行があり、どこか浮かれているところがあったのです」。
増子監督はコールド敗退の不甲斐なさに涙を流したが、他の選手はさほど悔しそうでもなかった。もっと本気でやらなければ…増子監督は選手間ミーティングで訴える。反応は薄かった。冬場には、増子主将の熱量についていけないと、先の集団ボイコットも起こしてしまう。春の都大会では2回戦で敗れた。「学校帰りにコンビニ近くの広場で話し込むなど、チーム内のコミュニケーションは取れるようになっていましたが、春の時点でもまだ一枚岩ではありませんでしたね」。
一枚岩になったのは、夏の大会直前だった。「同期が30人くらいいて、半分以上はベンチに入れないのですが、その同期が横断幕とメンバー全員分のミサンガを作ってくれて。そこで初めて、こいつらのためにもやるしかない、とチームが1つになったんです」。増子監督は「主将である僕がまとめたのではなく、ベンチ外の仲間にまとめてもらった。仲間に恵まれたと思います」と続ける。
自らの希望で大島に渡る
増子監督は雪谷高を卒業すると、日体大に進む。野球は続けたものの「甲子園に出られたことで燃え尽きてしまったのもあり、高校時代のように必死に取り組んだかというと、そうではなかったですね」。4学年合わせて約200人の部員がいる中、一軍に入ったこともあったが、強豪私学出身の選手との差も感じたという。
実はもともと教員志望ではなかった。別の職種で就職活動をしていたが、経験のためにと教育実習に行ったところ、その魅力を知ることに。保健体育の教員免許を取得すると、東京都の教員採用試験にもパスして、最初は都立大泉高に赴任。同時に野球部の指導者になり、部長を4年、監督を1年務めた。監督としては夏の大会で西東京16強に導いたが、その年度を最後に大島海洋国際高に異動。6年目となる大島海洋国際高でも初年度より野球部を受け持ち、助監督1年を経て、監督になった。
大島海洋国際高への赴任は自らの希望だったという。「定時制か島の学校かという2択の中、全日制で野球の指導をしたかったんです」。とはいえ、大島海洋国際高は全寮制の水産系の学校だ。野球がしたくて入ってくる子はほぼいない。野球部は毎年、9人揃うかどうかの部員不足に悩まされている。また学校の立地上、練習試合をするのも難しい。それでも増子監督はこの環境を前向きにとらえている。
「人数が少ない分、一人ひとりをしっかり見られます。それと自分の指導が正しいかどうかも分かりやすいので」
ただし、増子監督はつきっきりで指導することをよしとしない。「少し離れたところから様子を見ていることが多いですね」。自身が雪谷高時代にそうであったように、監督がいてもいなくても同じ姿勢で練習に取り組むことが成長に、そして自分たちで考える野球につながると考えているからだ。
出場から15年経って甲子園の魅力を知る
増子監督は野球の価値を高めたいとも思っている。
「ずっと野球をする価値が理解されているところにいたので、ここに来て初めて、それが当たり前ではないとわかりました。でもこういう環境だからこそ、野球を通して成長できることを知ってもらいたい」
2年前、増子監督はたまたま1人で夏の甲子園大会を観戦する機会があった。PL学園と対戦した17年前は「あっという間に試合が終わってしまったので(13対1で敗戦)、甲子園の記憶も刻めなかった」が、そこで初めて甲子園の魅力を知ったという。
「スタンドのお客さんがみんな笑顔で、いい顔をしているんです。あらためて甲子園は、グラウンドの選手はもちろん、お客さんもいろいろなものが得られる場所だと感じました」
チームの目標は甲子園出場ではなく、全国制覇。「僕らは甲子園に出られたことで気持ちが切れてしまったので」。目線を高くし、こういう環境でもできる、都立でもできる、ということを世に知らしめていくつもりだ。