承久の乱終結 先陣を主張する2人の武士の口論で北条泰時が採った対策
官軍(後鳥羽上皇方)と鎌倉幕府軍が戦った承久の乱(1221年)は、ついに終結しました。戦いは、幕府軍の勝利に終わったのです。
幕府方においては、合戦を戦った武士(『吾妻鏡』は勇士と表現しています)たちの手柄についての調査がスタートします(6月17日)。この武士は、こんなに凄い武功があった。こちらの武士の武功はそれほどでもないというように、勲功の「深浅」を糾明する作業が、京都・六波羅において行われたのです。
当時、戦が始まる際に重視されたのは、先陣です。誰が真っ先に敵陣に突入したかが重視されました。また、武士らも先陣目指して、あの手この手の「謀り事」を巡らせたのは、承久の乱においても同様でした。
承久の乱における宇治川の戦い。この戦いで、我こそが一番乗りと主張したのが、佐々木信綱と芝田兼義。両者は、先陣を主張して譲らなかったので、総大将・北条泰時と北条時房(泰時の叔父)の前で、意見を闘わせることになったのです。
佐々木信綱は「一番乗りというのは、敵陣に入る時の事です。乗る馬が川へ入ったのは、確かに芝田の方が少し先でした。しかし、その乗馬に矢が当たり、私が対岸に着いた時には、芝田の姿は見当たりませんでした」と主張。
一方の芝田は「「佐々木が川を越えることができたのは、私の先導によります。川の浅瀬が分からなければ、どうして先頭に進むことができたでしょう」と、自分が佐々木を道案内したのだ、だから私が先陣だと言い張ったのです。2人の意見を聞いているだけでは、いつまで経っても平行線を辿ります。結論は出ません。
よって、参考人が呼ばれます。当時、近くで先陣争いの光景を見ていた信濃国の武士・春日貞幸に事情を聞いてみようということになったのです。