国民に語らない総理と問題の本質をそらす野党による通常国会の始まり
フーテン老人世直し録(688)
睦月某日
第211通常国会が始まった。専守防衛に徹してきた日本が他国に対する攻撃能力を保有するという歴史的転換と、外国人から「このままだと日本は消滅する」と言われながら手をこまねいてきた「少子化対策」が主要テーマとみられる国会である。
いずれも日本の存亡にかかわるテーマだから、与野党が真摯な姿勢で議論することを切望する。少なくも選挙を意識して党派性をむき出しにした「55年体制」のような不毛な与野党対立になる事だけはやめて欲しい。
そう思いフーテンは通常国会を迎えたが、冒頭から期待を裏切る展開に出くわした。まず岸田総理の施政方針演説である。岸田総理は初めに近代の日本が大転換を行った例として明治維新とその77年後の敗戦を挙げ、敗戦から77年経った今こそ新たな時代を創る歴史の分岐点に立っていると述べた。
明治維新とその77年後の敗戦が日本にとって大転換であったことはその通りだ。しかし敗戦から77年経った今だから、日本を大転換させると岸田総理が意気込むのはあまりにも楽観的で安直である。現実を直視しない態度に疑問が湧いた。
昨年の終戦記念日にフーテンは「明治維新から77年目の敗戦と、敗戦から77年目の惨状」というブログを書いた。明治維新と敗戦による大転換はおびただしい犠牲の上に成し遂げられた。だからその後の日本は血のにじむ努力で成功を目指し、一時は頂点を極めるが、極めた途端に転落が始まった。明治維新からの77年目に日本は焼け野原になる。そして戦後77年目の日本は底なし沼に沈みつつある。
焼け野原になった日本はすべてを失ったことで立ち上がるしかなかったが、沈みつつある現在の日本は底にまだ足がついていないため立ち上がることができない。眠りこけたような国家に危機感は感じられず、沈む一方だ。
77年目だから大転換を図るという岸田総理の言葉の軽さに、国会の論戦が期待したものにはならない予感を抱いた。現在の世界情勢を見れば、日本の敗戦から77年目と言うより、74年前の米ソ冷戦の始まりに匹敵するとフーテンは思う。
ウクライナ戦争によって世界は真っ二つに分断された。ウクライナ戦争をプーチン対ゼレンスキーの戦争と見るのは視野狭窄だ。この戦争は欧米を中心とする先進国と中露を中心とする新興国の戦いである。その証拠にロシアに経済制裁を課したのは世界196カ国の中で欧米を中心とする48の国と地域に過ぎず、アジアも中東もアフリカも南米もほとんどの国が制裁に加わらない。
冷戦後に世界を一極支配した米国が、武力を使ってでも米国型民主主義で世界を統一しようとしたことが世界各地で反発され、まず中東で米国は覇権を失った。次に米国は中露に代表される専制主義との戦いを宣言し、ゼレンスキーにロシアを挑発させ、ロシアを戦争に引きずり込むが、それによって欧米以外の国々では反米感情が高まりつつある。
金融とサービス産業を主導する欧米先進国に、資源と製造業で成り立つ非欧米諸国が対抗する構図がウクライナ戦争で生み出された。世界一の産油国サウジアラビアは基軸通貨ドル以外に中国の人民元で石油決済を行い、南米諸国も自分たちの共通通貨を創設してドル基軸通貨体制に挑戦を始めた。
そうした中でアジアで唯一のG7加盟国である日本は今年議長国となる。欧米寄りにならざるを得ない事情がある一方、アジアの大国として中国をはじめとするアジア諸国との関係も重視しなければならない。重要な役回りが課せられている。
ところが岸田総理の施政方針演説は欧米寄り一色で、これでは今年のG20の議長国で、ロシアとも欧米ともつながるインドのモディ首相に、外交力で見劣りさせられるのではないかとフーテンは危惧した。
そして肝心の「反撃能力」の保有についても、異次元だと言う「少子化対策」についても施政方針演説に具体的な説明がなく、「国会の論戦を通じて国民に説明する」という姿勢を見せたのだ。それは施政方針演説が国民に向けられたものではないことを意味する。
フーテンは岸田総理が「先送りできない課題に取り組み、これまでの常識にとらわれずに歴史的大転換を図る」と言うのであれば、まずは国民に対し、これまで持たないとしてきた「反撃能力」をなぜ持つか、それは専守防衛の逸脱にならないか、米国と日本の役割分担はどう変わり、先制攻撃にならないための担保は何か、それを語りかけなければならない。
しかし岸田総理は国会で野党と論戦すれば、それで国民への説明は果たされると考えている。おそらく野党を言いくるめることができると考えているのだろう。安倍元総理が集団的自衛権を認める「安保法制」を成立させた時も、憲法に違反すると追及する野党に対し、政府は憲法の制約が課されていると主張し、議論は平行線のままだった。岸田総理はその再来を狙っているのだろう。
だとするとまた同じ議論を聞かせられる。つまり政府は①我が国または同盟国が武力攻撃を受けて我が国が存立危機事態に陥り、②国民を守るのに他に適当な手段がなく、③必要最小限の実力行使であれば憲法違反ではないと主張し、野党は憲法の平和主義に反するとして平行線の議論になり、最後は政府与党が押し切る。
憲法違反かどうかの不毛な議論より、どのような現実に我々は直面しているかを、与野党が様々な角度から議論してくれなければ、国民は自分が置かれた状況を知ることも、安全保障問題で判断を下すこともできない。それがないまま日本の安全保障政策はこれまで重大な転換を繰り返してきた。
憲法9条と日米同盟はセットである。9条があるから日本は米国に防衛を委ねた。しかし同盟は永遠のものではない。米国がやめると言えばそこで終わる。日本が見捨てられないためには何を要求されても応ずるしかない。最悪は米国の戦争に巻き込まれて道具に使われることだ。では日本は自立を求めるのか。求めれば見捨てられる可能性が高まる。
戦後の日本はそのジレンマの中を生きてきた。だから日本には米国に隷従させられることの不満が生まれ、米国には日本を守っても日本は米国を守らないという不満が生まれる。米国の不満を解消するため集団的自衛権の行使容認と、それに続いて反撃能力の保有が政権の課題となった。
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